安達原
(あだちがはら)

陸奥の安達が原の黒塚に鬼篭れりと言うは誠か 平兼盛

 見てはいけないと禁止されると、どうしても見たくなってしまうのが人情です。「浦島太郎」、「鶴の恩返し」、「舌切り雀」など、昔話では、この手の話は枚挙に暇がありません。これは洋の東西を問わないようで、シャルル・ペロー作の「青ひげ」なども同じプロットのおはなしです。謡曲『安達原』も同じ人間の弱さを上手く組み込んだお話です。

 『安達原』の舞台は、かつては安達原と呼ばれる陸奥への街道沿いの原野でした。「原野でした」、と過去形になるのは、ここは今では福島県の中でも最も繁華な「中通」と呼ばれる地域に属し、後には郡山を、前には福島市を控えながらも、二本松十万七百石の往時を偲ばせる城址や、日本一と言われる菊人形祭り、そして勇壮な提灯祭りで旅人を引きつけてやまない町となっているからです。 また二本松市安達は、高村光太郎の愛妻・智恵子の故郷としても知られています。

 二本松の歴史は万葉集の昔に遡ります。万葉集の歌の中に、「あだたら山」が詠い込まれたところから、この頃にはもう都まで、この山の存在が知られていたと考えられます。時代が少し下って、延喜六年(九〇六)、安積郡から別れて、安達郡ができます。そして平安末期の文治五年(一一八九)、東安達郡に田原秀行が入国、西安達郡は、安達藤九郎盛長に与えられました。その後、畠山、伊達、蒲生、加藤を経て、一六四三年、二本松は丹羽氏の領国となります。

 交通の要所としてのみならず、北に安達太良山を臨み、また中心部には悠悠と阿武隈川が流れ、大変風光明媚な場所です。電線が空をさえぎり、トラックが国道を行き交う現代でも、安達原は昔の陸奥を思い起こさせる何かをいまだ持っています。

 二本松の市街から国道を福島に向い、阿武隈川を渡ったところが、熊野の僧、阿闍梨祐慶東光坊が安達原の鬼女を鎮めたと言い伝わる安達原です。

 陸奥の旅といえば、松尾芭蕉の「おくのほそ道」が有名ですが、芭蕉もこの安達原を訪れたと書き残しています。ちょっとご紹介しましょう。

 「沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」

 さて、観世寺の門をくぐると、あまり広くない寺内に折り重なるように置かれた巨石にまず驚かされます。これが言伝えられる鬼女の住んでいたといわれる岩屋なのですが、その前にこの寺の縁起をひもといてみましょう。

観世寺の山名「真弓山」というのは、この寺に伝わる観音の白真弓の言伝えに基づいています。

 奈良時代、聖武天皇の御世の頃、紀州・熊野に住む、阿闍梨祐慶 東光坊という僧が、仏教流布を望み、あちこち回国した後、遂に陸奥へと入って来ました。白河の関を越え、郡山を経て、安達の里にさしかかると、秋の末の時雨に降り込められてしまいました。

 しばらく見つけた廃堂にて、雨宿りをしましたが、ここで夜を明かすことを怖れ、雨が小止みになるのを待ち、人家を求めて安達原に足を踏み入れました。が、行けども行けども茫々たる草原。とうとう日は暮れ、夜になってしました。東光坊は、もはやこの野中で夜を明かすことになるかと観念しかかった所、向うの方に一つの灯が見えたので、疲れた体を急がせてその灯の方へと向かいました。大河にかかる筏のような橋を渡り、燈火の所在を探し当てるとそこは、巨岩巨石が層々に重なった天然の岩屋に、ようやく筵を掛け添えたような茅屋でした。東光坊が様子を伺うと、一人の銀髪の老婆が糸繰り車を前に夜なべの体でした。それでもそとで夜を明かすよりはよほどましだと、東光坊がおとないをかけると、老婆は快く僧を中へと案内しました。

 夜の更け行くまま、東光坊祐慶は今までの回国修行の話を老婆に聞かせました。祐慶の話に、老婆は大変感じ入り、他にもてなすものもない所から、暖を取る薪だけでもふんだんに用意しようと、折から雨の上がった表に出かけようとします。出かけようとしたその時、老婆はためらいつつ「寝所を見ない」という約束を東光坊にさせて出かけて行きます。約束はしたというものの東光坊は、なぜ主の閨の内を見るななどと言うのだろうかと不審に思い、ついその閨を開けてしまいます。するとそこは累々と積み重なる死体の数々…。これは皆、行き暮れて一夜の宿を借りた旅人の果てであろうと合点した東光坊は、すぐに老婆の岩屋を後にした。

 帰って来た老婆は、その場の有様を一見してすぐに祐慶が逃げたことを悟り、「三宝に仕える行者までは殺さん、と決心した我をよくも欺いたことよ」と歯軋りして僧の後を追った。

 足には自信のある祐慶だったが、さすがに悪鬼と化した老婆には敵わず、原の真中で追い付かれてしまった。今はこれまでと祐慶は、仏の力にすがるべく、背負っていた笈を降ろし、中に安座していた如意輪観世音菩薩の尊像に向かって、必死に祈祷を始めました。すると今まで晴れていた空がにわかにかき曇り、大風が起こって老婆へと吹きつけ、さすがの鬼もなかなか前へ進めなくなってしまいました。東光坊が一心不乱に経を唱え続けると、空中に如意輪観世音が浮かび上がり、白羽の羽魔の真弓に金剛の弓を番えてはっしと鬼女に射かけました。

 さすがの鬼女も観世音直々の矢には敵わず最期を遂げました。祐慶は、この如意輪観音の尊像を鬼女の住んでいた岩屋の傍らに堂を結んで安置し、それが真弓山観世寺の始まりとなったと縁起には書かれています。祐慶は、鬼女が命を落した阿武隈川の辺に塚を立て、杉の木を植えて、鬼女の霊をも弔ったそうです。

 さて、白真弓の伝説とされるこの縁起は、ほとんど能の筋と変わりがありません。しかしこの伝説はあくまで伝説で、実際にあったこととは思えないようです。観世流の謡本を開くと、どの曲でもその出典が書かれています。『安達原』の出典は、冒頭でもご紹介した「拾遺和歌集・平兼盛の歌」とのみ書かれ、観世寺に伝わるこの縁起のことなどはどこにもありません。重要な登場人物である東光坊祐慶も、実在の人物かどうかハッキリしないようです。つまり、最初にあったのは兼盛の和歌が一首のみ。その歌にヒントを得た金春禅竹(世阿弥と言う説もありますが)が、謡曲の物語を作り、それが非常に有名になって安達原の観世寺にまで伝わり、謡曲を元に縁起を作ったのではないかと推察されるのですが、現在ではこの伝説にさらに前置きのお話が付いています。これは安達原の鬼がなぜそうなったかというお話です。鬼女は、その前身は都の高貴な姫君の乳母であり、名を岩手と言いました。岩手の仕える姫はしかし、難病にかかり、病を治すには妊婦の生き胆のみが薬であるというご宣託を受けて、途方に繰れた岩手は家族も捨てて、旅に出ます。都を遠く離れた鄙の地であれば、もしかしたら妊婦の生き胆を手に入れることが出来るかもしれない、と…。阿武隈川の辺まで来た岩手は、そこに棲みつき、機会を伺っていたという。或る晩秋の寒い日のこと、若い二人の男女が、宿を乞いた。この二人は、生駒之助と恋衣という夫婦者で、恋衣のお腹には子が宿っているのに、行き暮れて、この寒さで困っていると言うのでした。岩手はそれを聞き、喜んで泊めてやることにしました。

その夜のこと、恋衣が急に腹痛を訴えたので、生駒之助は急いで薬を求めに出かけました。好機とばかり、岩手は台所から出刃包丁を取り出し、恋衣の腹を裂き、生き肝を取ろうとしました。恋衣は苦しい息の下から

「私は、母を尋ねて歩いております。心当りの旅人がありましたらお話し下さい」と語って、息絶えます。恋衣の持ち物を調べ、お守り袋を見つけて開いた岩手は驚きました。都に残した娘だったのです。

知らずとはいえ、自分の娘と孫を殺した岩手は、苦しみ、終に発狂して鬼女となったと言います。鬼となった岩手は、夜、灯火を高く燈し旅人の足をとめ、殺してその財を盗り、衣を剥いで生活をするようになってしまいましたが、都を遠く離れていたせいもあり、咎める人もなかったところに、祐慶の登場となるのです。

この言伝えは歌舞伎の『安達原』の原典となっていますが、これも謡曲『安達原』の成功に伴って有名になった鬼婆が、いつ、どうして鬼となったかの疑問を満足させるために作られた、後世の伝説だろうと思われます。

謡曲の下地となった兼盛の歌ですが、それも安達原に鬼が住んでいたからああいう歌を詠んだのではなく、安達の国守の娘たちを噂し、それらを鬼と戯れに詠んでみたと言うのが本当のところのようです。

鬼が住んでいた「安達原」と言うのは、ここではなく別の場所だと言う説もあります。

蓑笠庵梨一によって江戸時代に書かれ、今でも芭蕉の「おくのほそ道」の第一の注釈として名高い「奥細道菅菰抄」にも、これは詳しく書かれています。

 それによりますと、謡曲に出て来る黒塚とはこの奥州の安達原ではなくて、武州足立郡大宮、つまり今の埼玉県の大宮にあるというのです。ここにも黒塚と名のつく塚があり、あだちが原と呼ばれていたそうです。この呼称は、足立郡の原であるからだそうです。

 現在でも、大宮の町には東光寺という真言宗の寺が残っていて、東光坊祐慶の開基だと伝えられています。「奥細道菅菰抄」では、この寺の裏の畑に黒塚が残っており、「安達」も「足立」も読み方が同じである所から、謡曲の方が誤って、ここのあだち原にでた女盗賊の話を安達原に出る鬼女としてしまったのだろうといいます。

 東光寺は現在でも大宮にありますが、維新後に元あった所から引越しをして現在の場所になったというので、今ではその近くに黒塚は残っておりません。

 蓑笠庵梨一はかなり確信を持って書いているようですから、『安達原』の旧蹟は、この大宮の東光寺だというのが本当なのかもしれませんが、私はやはり安達太良山と阿武隈川に見守られた、智恵子の言う「ほんとうの空」の下の安達原のほうが、鬼女が住む原だと思っています。

 二本松は秋本番のこれから、一年で最も賑やかな季節を迎えるそうです。十月四から六日まで、二本松神社の大祭は、太鼓台に三百個の提灯をつけた山車が町中を練り歩く提灯祭りが開かれます。そして十月一日から十一月二十三日まで、丹羽氏の居城だった霞城跡では、日本一の規模の菊人形祭りが行われるそうです。現代版の奥の細道はいかがでしょうか。


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