敦 盛
(あつもり)

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す

奢れる者は久しからず 只春の夜の夢の如し

猛き者も終には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

 平家物語の最初の一節です。大変流れの良い文章だとは感じませんか?

 それもそのはず。「平家物語」には、色々なテキストがあるのですが、その主たるものは、琵琶の音に乗せた弾き語り用のものなのです。親しいお囃子方の奥様は、「謡みたいよね。」と仰いますが、謡もこの物語も、音楽に乗せるという観点から捉えますと、耳に心地よいリズムを持たなくてはならないことが、なるほど納得できます。

 現代のように決まった休日もなく、娯楽もそれほど多くない中世には、人が多く集まる場所と言うのは限られたものでした。たいていは、神社や寺の境内。人が集まれば市も立ち、となれば何か見世物も出ようというのは、古今東西変わらぬものです。日本版吟遊詩人である琵琶法師が現れたのは、このような背景のもとでした。

「平家物語絵巻」より琵琶法師の図
「まんが日本昔話」というテレビ番組を覚えていらっしゃる方、多いのではないかと思います。私は小学生の頃、これが大好きで、土曜日の夜は欠かさず見ておりました。いつも、一話目はほのぼのとした話、二話目は悲しい話や怖い話だったのですが、「耳無し方一」という話は、あの独特の語り口と共に、いまだに忘れることが出来ません。これは、平家物語の名人だった琵琶法師・方一が、そのあまりの上手さに、平家の幽霊達に魅入られて、魂までも取られそうになるという民話です。ここから題材を取ったのが、小泉八雲、つまりラフカディオ・ハーンの「怪談」ですね。武将の幽霊が、「ほういちぃ〜、ほういちぃ〜」と墓場の中を探す場面が怖くて怖くて、その夜は一人でお手洗いに行けなかったのを、今でもありありと覚えています。

 話が大分脱線しましたが、このように平家といえば琵琶法師、琵琶法師といえば平家と、この二つは切っても切れない関係です。と申しますのも、平家物語には特定の作者がおらず、初本も残っていず、現在私達が目にしているものは、鎌倉時代に無数の琵琶法師達が、推敲に推敲を重ねて磨き上げたものだからです。

 残念なことに、一時は世を風靡した、この平曲(琵琶法師の語る平家物語)も、現在ではなかなか聞く事が出来ません。色々な流派を産み、栄えた平曲も、現在では前田流と呼ばれるものだけが残っているそうです。この平曲を伝承されている一人に、後藤光樹さんとおっしゃる女性がいらっしゃいます。仙台在住だそうですが、まれに東京でも演奏されるので、平曲を聴いてみたい方はお名前を覚えておくと良いかもしれません。また、せめて琵琶の音だけでもと聴きたいと思われる方には、筑前琵琶も良いでしょう。これは平曲とは別に発展したものですが、この奏者に、田中旭泉さんとおっしゃるまだ若い女性がいらして、精力的に活動していらっしゃいます。大変美人ですので、目も耳も楽しめる舞台です。

六波羅蜜寺・京都
 さて、そろそろ平家と敦盛の話に移りましょう。無官の太夫と称されるこの少年は、一の谷合戦の時、歳。平忠盛の二男で、清盛の弟・経盛の三男です。平家の頭領・清盛には甥となります。経盛一家は、皆管弦に才能があったらしく、父・経盛も笛の名手でしたが、長男・経正は琵琶の名手で、謡曲『経政(経正)』にも登場します。末っ子である敦盛も笛の名人として名高く、祖父・忠盛が鳥羽院から拝領した笛を、経盛を経て相伝していました。これが「小枝の笛」と呼ばれるものですが、謡曲の中では「青葉の笛」なっています。この話はまた後程ということにして、まずは平家がその栄華を誇った場所である、京都・六波羅から見てまいりましょう。

 現在の六波羅辺は、京都でも下町に属すそうです。いわゆる町屋が軒を並べ、ここが一族の広大な屋敷であったというのは遥か昔のことですが、今でも街の中心に六波羅蜜寺があります。この寺は、空也上人の像があることで知られていますが、その他にも清盛の坐像や、運慶親子の像、そして清盛とその寵を受けた阿古屋の塚などがあって、遠い鎌倉の世を偲ぶことが出来ます。

六波羅蜜寺内に残る清盛塚
 平清盛という人は大変な悪人とされていますが、この寺に残る坐像を見ると、そのような印象は受けません。清盛は確かに極端なネポティズムに走ったかもしれませんが、その生前の業績をみると、宗との貿易を盛んにしたり、また敵の子供である頼朝や義経を救ったりといわゆる悪人の姿からは遠いものが浮かび上がってきます。私個人の清盛のイメージは、華やかなことが好きで調子の良い、涙もろい人というもので、頼朝よりずっと好感を持っています。自分が命を救ってやった少年達に、一族を滅ぼされてはしまったけれど、皆仲良く、潔く滅んだ平家に比べて、同族で殺し合い、また当時の武家の娘でありながら、結婚しても実家の姓を名乗り続けるような奥さんの尻に敷かれていた源頼朝より、人間として清盛はずっと幸せだったのではないでしょうか。
清盛が悪人とされた原因の一つに、比叡山や奈良の寺の焼き討ちがあるとされています。織田信長も同じことをしているのですが、清盛のようなバッシングを受けていないのは、これは時代の違いでしょう。清盛は少し早すぎたのでしょうね。

須磨寺境内
 清盛を悪と書きながらも、名作として平家物語が語り継がれているのと異なり、源氏を題材にしたものはありません。平家と同じく、源氏もはかない運命です。鎌倉幕府を開いたけれど、三代で終わってしまい、それも最後の将軍・実朝は甥である公暁に殺されるのです。同じ悲劇でありながら、平家は名文学として残り、源氏は嫡流でない義経ばかりがもてはやされたという背景には、平家の滅亡の潔い美しさに比べて、源氏は、同族相食む陰惨さが目立ってしまうせいでしょうか…

左:鉢伏山  右:国道沿いの濱戦跡 忠度の陣跡と伝えられる
 さて京都を追われた平家一門は、西へ西へと向かいます。幼い安徳天皇を上に擁いた一群は、完全な戦闘集団だった源氏の軍に比べるとまるで雑居坊でした。平家の公達というと、武士の心を失い、公家になってしまったと思われがちですが、平家にも、知盛や教盛といった猛者がいるのです。しかし彼らの最大の不幸は、義経という稀代の名将を相手にしなければならなかったことではなく、女子供の面倒を見ながら、戦争を続けねばならなかったことでしょう。須磨まで落ちのびた平家は、大きな合戦を覚悟し、一の谷に陣を敷きます。ここは背後に鉢伏山・鉄拐山を控えた要害の地です。ところが義経の天才は、思ってもみない「鵯越え」という奇襲戦法を編み出し、平家の陣を背後から襲うのは、皆様も御存知でしょう。この合戦の結果、平家方は、忠度・経正・敦盛・通盛・知章の武将を失い、また重衡は捕えられて鎌倉に護送されます。これらの名前は、能楽ファンには親しいものですね。敦盛は、この時海に逃げた味方に追いつこうとして、熊谷次郎直実に見つかってしまうのです。

須磨寺境内の「源平の庭」
 平家物語の巻九の十五「敦盛の最期」は、この時の情景をこう記しています。「平家の公達、助船に乗らばやとて、汀の方へや落ち行き給ふらん、あっぱれ良き大将軍に組まばやと思い…」奇襲が成功して、勢いに乗っている源氏方と、全軍総崩れになり、とにかく逃げようとしている平家方の違いが良く分かります。

 敦盛を見て、「これは立派な将軍に違いない。あの首を捕ってやろう」と決めた熊谷は、この時点ではまだ功にはやる武人でした。そこで「まさなうも、敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へと挑発するのです。まさか、たった歳の少年に戦いを挑んだとは、直実自身思いも寄らなかったでしょう。敦盛のいでたちと言えば、「練貫に鶴縫うたる直垂に、萠葱匂ひの鎧着て、鍬形打ったる甲の緒を締め、金作の太刀をはき…連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて」と字面だけでも、大変絢爛豪華です。大音声で挑まれた敦盛の方は、仕方なく駒を返します。

須磨寺に残る「青葉の笛」
が、もとより直実の敵ではありません。あっというまに組み伏せられ、甲を取られてしまいます。ここに到って直実は初めて敦盛の顔を見るのですが、大将軍と思ったのは、薄く白粉をはたき、鉄漿をつけた女と見まごう美少年でした。いくら手柄をたてたいと思うにしても、これではあんまり力が違いすぎます。直実は敦盛が可哀想になってしまうのですが、当の本人が「
汝がためには良い首ぞ」などとすっかり諦めてしまっていますし、ここで見逃してやっても、また他の味方に襲われるのは時の問題だと思ったので、仕方なく首を獲ります。そしてその持ち物をみると、戦場に似つかわしくない、笛が入っています。これは、鳥羽院から授かった「小枝の笛」ですが、謡曲では何故か「青葉の笛」と名が変わっています。諸説様々有るそうですが、若くして散った敦盛のその若さを悼み、その劇上での効果を狙って、世阿弥が青葉としたのが最もふさわしい解釈ではないかと思われます。この笛ですが、今でも須磨寺に、直実の彫ったといわれる敦盛像と共に保存されています。既に壊れていて、もう音は出ないでしょうが、その朽ち方に敦盛の儚い命がなぞらえられるようで、何となく憐れを誘われます。この笛の真偽も色々と取り沙汰されていますし、また直実の発心も敦盛を殺したからではなく、領地争いの不首尾だというのが正しいようですが、やはり舞台を楽しむ一観客としては、学術的な正しさよりも、伝説の美しさの方が惹かれますので、笛は「青葉の笛=小枝」、直実の発心は、敦盛の最期によるとしましょう。

同じく須磨寺の「敦盛像」、蓮生法師(直実の発心後)作と伝えられている
 それにしても、実際の歴史の中では大して重要でない敦盛が、これほど人の心を打ち、能のみならず、幸若舞、文楽、歌舞伎と様々に取り上げられている背景には、悲劇の美少年という敦盛のキャラクターもさることながら、直実の円熟した人格も大きく関わっているに違いありません。もし、敦盛を討ったのが大変老獪で実際的な人物、例えば梶原景時だったとしたら、こんなにも叙情性あふれる物語になったでしょうか。おそらくそうはなっていないでしょう。散る桜は、それを正しく鑑賞できる目が存在して初めて、美と認識されるのです。儚く散った敦盛の命も、それを惜しんだ直実がいて初めて、我々に語りかけてくるのです。そしてまた、若さの美しさは、それを失ってしまった者でないと分らないのかもしれません。直実は敦盛を悼むことで、失ってしまった自分の若さをも惜しんでいるのではないでしょうか。世阿弥も、こういうことを狙って『敦盛』を描いたのではないかと勘ぐってしまいます。でなければ、どうして自分を殺した人のところに懐かしく出てくるのだろう、と能の『敦盛』を不思議に思ってしまいますよね。殺された魂ならば、『船弁慶』の知盛のように恨んで出てくる方が当たり前なのですから。

 それにしても、この直実という人は、実に味わい深い人です。直実ナシでは、「敦盛の最期」はほとんど魅力がありません。彼の本質は、外見の、荒くれ武者というステレオタイプの東国武士ではないのです。戦場でも、ものの憐れを知る心を失わない、情のある人でした。平家物語の中でも、「この殿の父、さこそは嘆き悲しみ給はんずらめ」と経盛の心情を推し量り、またその前の部分ですが、一の谷の合戦の際に、息子の小次郎が怪我をしたと聞いて、「鎧づきを常にせよ、裏かかすな…」などと細々と注意を与えてもいます。

 直実は後に出家して、黒谷の法然上人の弟子となり、敦盛の回向をするのですが、最終的には数多い上人の弟子の中でも、五本の指に入る高弟となるのです。やはり非常に優れた人だったのでしょう。

 それに比べると敦盛は「ぼんぼんの、末っ子の甘えん坊だなぁ」と感じます。あの、争いを避ける姿勢、諦めの早さ、そしてその割りには「名乗らずとも首を取って人に問へ。見知らうずるぞ」というセリフにも見られる、捨て台詞の口達者。どうもどこかで聞いたような…、と思っていたら何とすぐ傍にいました。私の末の弟です。このことを、ある時自宅で口にしますと、「僕はずっとそう思っていたんだよ。」と妙に自信たっぷりな答えが返ってまいりました。…したり顔の彼も、末っ子です…


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