第六天
(だいろくてん)

 伊勢神宮が謡い込まれた能は、『第六天』ばかりでなく『絵馬』などもございますが、このお社は、それについて書かれた文献を読めば読むほど興味深い所です。

 伊勢神宮、又はお伊勢さんなど、人によって呼び方は様々かと思いますが、この神社の正式名称は「神宮」と、実に簡素です。が、しかし、シンプルなことが即ち簡略な、庶民的なことではありません。
 伊勢神宮は、全国に八万ある神社の頂点に立つ、最も位の高い社なのです。それではどうぞ御一緒に、お伊勢詣りへと出発致しましょう。

 伊勢詣りが盛んになったのは、江戸時代、庶民の自由な移動を禁止した幕府が、これだけは唯一の例外としたことからです。弥次さん北さんも、お伊勢詣りなら簡単に行けるということで大ブームとなったのですね
 。今でも伊勢神宮に参りますと、次々に大型の観光バスが到着し、深い森に囲まれた広い境内の、どこに行っても参詣客が見られる程です。

 さてその伊勢神宮ですが、参拝場所は大きく二つに分かれ、祭神は、内宮が天照大神‐あまてらすおおみかみ、外宮が豊受大神‐とようけおおかみになります。そしてまた、この内宮・外宮に付随して数々の神を祭る社が鎮座し、それらの総称が神宮となります。
 天照大神は皇室の祖先であり、八百万の神々の頂点に立つ神ですから、内宮の方が位が高いのです。ですから参拝の順序としては、まず外宮、最後に内宮と言うのが決まりです。偉い人はたいてい一番最後に出て来るものですからね。

 伊勢神宮の起源は『第六天』に謡われてもいる様に、第十一代垂仁天皇の皇女・倭姫が、天孫降臨の際に天照大神から授かった三種の神器を持ち、天照大神を祀るのに良い場所を探して各地を巡り、最後に伊勢に来たところ神託が降り、五十鈴川の辺に宮を建てたのが始まりだとされていますが、いかんせんこれは神話の世界の出来事で、史実として伊勢に宮が在ったことが分かるのは、七世紀の天武天皇まで下らなくてはなりません。

 伊勢神宮について書きたいだけ書いてしまうと、のうのう便りが大長編になりかねませんので、今回は伊勢神宮独特の事柄についてのみ、記すことにしようと存じます。

 まず最初の特徴は、社殿を参拝者の目から隠すように作られていることです。

なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさの涙こぼるる

 この歌は、西行が神嘗祭の時に詠んだ歌だと伝えられていますが、確かに伊勢神宮に行くと、

 正殿は「玉垣・端垣・板垣」と呼ばれる垣が五重にも張り巡らされた向うにあり、参拝者からはかろうじて屋根が見えるだけで、何が鎮守されているのか分からないのが事実です。
 また神宮の深い森に包まれた境内は、いかにも神域と言った雰囲気で、大勢の団体客もあまり騒がず歩いているのも、「何だか分からないけれども、神様がいそうな雰囲気だ」と思わせられているようで不思議です。

 次の特徴は、皇室との結びつきの強さです。皇祖神である天照大神を祭っているのですから勿論でしょうが、以前は伊勢神宮というのは、皇室しか祈願することが許されなかった神社なのです。
 この結びつきの強さを現すもう一つの例が「斎宮‐いつきのみや」です。神宮の起源は天皇の皇女である倭姫によるもので、そのせいか、又は皇室との結びつきの強さを表す為か、恐らくその両方なのでしょう。伊勢神宮には必ず、未婚の皇女、或いは女王(親王女)が一代に一人、天皇の御杖代‐みつえしろとして仕えました。

 伊勢の斎宮又は斎王は、天武天皇の皇女・大来皇女‐おおくのひめみこが天武二年(六七三)に卜定されてから後醍醐天皇皇女祥子内親王が元弘三年(一三三三)に卜定されるまで、六六〇年続き、全部で六六人を数えました。
 斎宮は又物語などにも多く登場し、中でも「源氏物語」の六条御息所の息女が伊勢の斎宮として下向の時に、母の御息所が共に下るのは有名です。

 斎王に選ばれると、皇女は嵯峨野の野々宮神社に入り前後三年間の潔斎を経て、伊勢の斎王宮に群向します。そして、天皇が退位するか、両親が死ぬまで、ここで斎王として暮らすのです。
 興味深いことに、この斎王宮は宮川の外側にあり、普段斎王が神宮の神域に立ち入ることは禁止されていたそうです。斎王といえども穢れた神域外で生まれ育ったことには変わりなく、6月・9月・12月に行われる三節祭の時のみ、神域内に入り、外宮・内宮に玉串を捧げていたそうです。

 現在この斎王宮跡は発掘中であり、色々と分からないことの多かった斎王のことについて新たな発見が相次いでいるそうです。宮川の外の明和町には、斎宮歴史博物館といつきのみや歴史体験館がオープンし、斎王の暮らしを勉強したり、また斎王の装束を着てみることも体験できるそうですので、現代のお伊勢詣りの一つに加えてみるのも面白いのではないでしょうか。

 最後になりますが、最も伊勢神宮らしいといえば、やはり式年遷宮を忘れてはならないでしょう。式年遷宮とは、二十年に一度神殿はもちろん、神宝、装束、別宮など付属の社、橋、鳥居から塀に至るまで丸ごと全部造り替え、神様に引越ししてもらうことを言うのです。
 遷宮の制度を持つ神社は伊勢神宮の外にも出雲大社などがありますが、神宮の遷宮制度が決められたのは、遥か昔天武天皇の頃であり、最初の遷宮が行われたのは、持統天皇の四年(六九〇)というのですから、かれこれ一三〇〇年も続いているのです。その間中断したのは室町末期の戦乱の一三〇年ほどと言うのですから、これは大変なことではないでしょうか。

 伊勢神宮の式年遷宮はまた、伝承形式の本殿を保つという役割を担っていることでもユニークです。つまり新しい流行にとらわれず、一番創め、奈良時代に造られた形をそのまま現代に踏襲している訳です。
 伊勢神宮の拝殿の数々を見ることは、そのまま一三〇〇年前の、外国の影響をほとんど受けていない、日本古来の建築様式を見ることなのですから、驚き以外の何ものでもありません。

 さてこの式年遷宮の周期ですが、二十年というと決して短いものではありません。しかし、正宮の後には別宮の遷宮が控え、また従来の社殿の解体もしなくてはなりません。更に次の遷宮の為の最初の行事である山口祭・木本祭(用材の伐採はじめ)は八年前から始まります。
 当然それ以前から用材の選定や技術者の人選、予算計画などの下準備を行わなくてはならないのです。つまり遷宮を終えると、すぐ次の遷宮の準備が始まるのです。

 けれども建物の耐久年数は二十年よりもずっと長く、また御用材となる木材は最上の檜を用いているので、少々手を入れればまだ十分保ちます。
 そこでこれらの古材は全国の神社に払い下げられ、熱田神宮を始め、有名な神社が数多く建造されています。では、なぜ神宮では二十年に一度の遷宮をあえて行うのでしょうか。

 もちろん古代に国法として制定したことが大きな理由なのですが、美観を保ち、また建築や工芸技術を完璧に伝えるためには、この二十年というサイクルが最適なのだそうです。

 伊勢神宮が現代の私達に古い形を見せてくれるのは、建築様式や工芸ばかりではありません。神宮では毎日二回、内外の大神と近侍する相神に食事を捧げる祭を行っています。
 これを日別朝夕大御饌祭‐ひごとあさゆうおおみけさいと呼びますが、この祭に必要な食材や食器、木製品や布製品等の物資は全て神宮内部で昔のやり方で製造されていますし、またその作る過程も例えば毎回木を擦って新しく熾した火と、上御井神社で汲み上げた水で調理するなど、私達の先祖と変わらぬ方法を守っています。

 倭姫が上陸したと伝えられる二見浦、ここから少し足を伸ばすと、御塩殿神社と「御塩浜」があって昔ながらの塩作りが見られますし、松阪の神服織機殿神社や神麻続機殿神社では、御衣を織る様が見られます。

 お伊勢詣りをすると、とても簡単に時間旅行をして、御先祖様の生活を覗くことも出来るのです。

 ではお伊勢詣りも済んだので、ここで少し『第六天』の登場人物の一人、素盞鳴尊‐すさのをのみことに登場していただきましょう。

 古事記や日本書紀に掲載されている国創りの神話や高天原の神様の話は、大変面白いのですが、あまりにもたくさんなのが玉に傷です。これは日本が八百万の神様を持っているだけに仕方ないのでしょうが…
 おまけに名前のほとんどは恐ろしくややこしいのです。また困ったことに沢山名前を持っている神様もいます。スサノヲはかなりメジャーですし、名前も覚え易いのですが、どんな謂れのある神様なのかもう一度ご紹介致しましょう。

 亡くなったイザナミの女神を惜しんだイザナギの神は、黄泉の国まで追いかけて行きますが、女神の変わり果てた姿に肝をつぶして逃げ出してしまいます。怒った女神の追っ手を振り切ったイザナギは、穢れたと言って、九州・筑紫の海で禊祓いをします。
 この時最後に産まれたのが天照大神・月読神・素盞鳴尊の三柱神で、イザナギはアマテラスには高天原、ツクヨミには夜の国、スサノヲには海原を治めるように言い聞かせます。上の二人は従うのですが、スサノヲだけはいつまでも泣いていて、父の命に従いません。「母に逢いたい」と言うのを聞いた父は、怒って彼を追放します。

 仕方なくスサノヲは、姉のアマテラスの所に暇乞いに行きましたが、その様子があまりに荒荒しいので、アマテラスは弟が彼女の国を乗っ取りに来たのだと思います。スサノヲは自分に逆心のないことを示すために、「ウケイ」という誓いをして、まずアマテラスがスサノヲの剣から三人の女神を生みます。次に弟は姉の勾玉から五人の男神を産みました。これで叛心のないことが証明され、(なぜそうなるのか分かりませんが…)スサノヲは高天原に迎え入れられます。

 ところがこの後彼は大暴れをした挙句、アマテラスの天の岩戸隠れを引き起こし、結局天から追放されてしまうのです。

 追放されたスサノヲは漂浪し、今の出雲の国にやって来ると、八俣遠呂智と言う化け物の生贄となった、櫛名田比売を助けることとなります。スサノヲは、クシナダヒメの両親に強い酒を造らせ、それで酔わせてヤマタノオロチを見事退治します。
 この時オロチの体内から出てきたのが、神剣・草薙の剣で、この後スサノヲはその剣をアマテラスに献上し、アマテラスは孫のニニギノミコトが地上に降臨する時に他の二つの宝と共にこれを持たせたのが、天皇家に伝わる三種の神器となるのです。

 一方スサノヲは姫を娶り、新しく国を造るところを探しました。そして清々しい所を見つけ、「我心清々し」と宮作りし、歌を詠みました。

八雲立つ 出雲八重垣 夫婦ごみに 八重垣作る その八重垣に

この歌が始めての三十一文字の歌だとされ、そのためスサノヲは和歌の守り神として、また別の能に登場するのです。


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