第六天
(だいろくてん)
伊勢神宮が謡い込まれた能は、『第六天』ばかりでなく『絵馬』などもございますが、このお社は、それについて書かれた文献を読めば読むほど興味深い所です。 伊勢神宮、又はお伊勢さんなど、人によって呼び方は様々かと思いますが、この神社の正式名称は「神宮」と、実に簡素です。が、しかし、シンプルなことが即ち簡略な、庶民的なことではありません。 伊勢詣りが盛んになったのは、江戸時代、庶民の自由な移動を禁止した幕府が、これだけは唯一の例外としたことからです。弥次さん北さんも、お伊勢詣りなら簡単に行けるということで大ブームとなったのですね さてその伊勢神宮ですが、参拝場所は大きく二つに分かれ、祭神は、内宮が天照大神‐あまてらすおおみかみ、外宮が豊受大神‐とようけおおかみになります。そしてまた、この内宮・外宮に付随して数々の神を祭る社が鎮座し、それらの総称が神宮となります。 伊勢神宮の起源は『第六天』に謡われてもいる様に、第十一代垂仁天皇の皇女・倭姫が、天孫降臨の際に天照大神から授かった三種の神器を持ち、天照大神を祀るのに良い場所を探して各地を巡り、最後に伊勢に来たところ神託が降り、五十鈴川の辺に宮を建てたのが始まりだとされていますが、いかんせんこれは神話の世界の出来事で、史実として伊勢に宮が在ったことが分かるのは、七世紀の天武天皇まで下らなくてはなりません。 伊勢神宮について書きたいだけ書いてしまうと、のうのう便りが大長編になりかねませんので、今回は伊勢神宮独特の事柄についてのみ、記すことにしようと存じます。 まず最初の特徴は、社殿を参拝者の目から隠すように作られていることです。 なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさの涙こぼるる この歌は、西行が神嘗祭の時に詠んだ歌だと伝えられていますが、確かに伊勢神宮に行くと、 正殿は「玉垣・端垣・板垣」と呼ばれる垣が五重にも張り巡らされた向うにあり、参拝者からはかろうじて屋根が見えるだけで、何が鎮守されているのか分からないのが事実です。 次の特徴は、皇室との結びつきの強さです。皇祖神である天照大神を祭っているのですから勿論でしょうが、以前は伊勢神宮というのは、皇室しか祈願することが許されなかった神社なのです。 伊勢の斎宮又は斎王は、天武天皇の皇女・大来皇女‐おおくのひめみこが天武二年(六七三)に卜定されてから後醍醐天皇皇女祥子内親王が元弘三年(一三三三)に卜定されるまで、六六〇年続き、全部で六六人を数えました。 斎王に選ばれると、皇女は嵯峨野の野々宮神社に入り前後三年間の潔斎を経て、伊勢の斎王宮に群向します。そして、天皇が退位するか、両親が死ぬまで、ここで斎王として暮らすのです。 現在この斎王宮跡は発掘中であり、色々と分からないことの多かった斎王のことについて新たな発見が相次いでいるそうです。宮川の外の明和町には、斎宮歴史博物館といつきのみや歴史体験館がオープンし、斎王の暮らしを勉強したり、また斎王の装束を着てみることも体験できるそうですので、現代のお伊勢詣りの一つに加えてみるのも面白いのではないでしょうか。 最後になりますが、最も伊勢神宮らしいといえば、やはり式年遷宮を忘れてはならないでしょう。式年遷宮とは、二十年に一度神殿はもちろん、神宝、装束、別宮など付属の社、橋、鳥居から塀に至るまで丸ごと全部造り替え、神様に引越ししてもらうことを言うのです。 伊勢神宮の式年遷宮はまた、伝承形式の本殿を保つという役割を担っていることでもユニークです。つまり新しい流行にとらわれず、一番創め、奈良時代に造られた形をそのまま現代に踏襲している訳です。 さてこの式年遷宮の周期ですが、二十年というと決して短いものではありません。しかし、正宮の後には別宮の遷宮が控え、また従来の社殿の解体もしなくてはなりません。更に次の遷宮の為の最初の行事である山口祭 ・木本祭(用材の伐採はじめ)は八年前から始まります。 けれども建物の耐久年数は二十年よりもずっと長く、また御用材となる木材は最上の檜を用いているので、少々手を入れればまだ十分保ちます。 もちろん古代に国法として制定したことが大きな理由なのですが、美観を保ち、また建築や工芸技術を完璧に伝えるためには、この二十年というサイクルが最適なのだそうです。 伊勢神宮が現代の私達に古い形を見せてくれるのは、建築様式や工芸ばかりではありません。神宮では毎日二回、内外の大神と近侍する相神に食事を捧げる祭を行っています。 倭姫が上陸したと伝えられる二見浦、ここから少し足を伸ばすと、御塩殿神社と「御塩浜」があって昔ながらの塩作りが見られますし、松阪の神服織機殿神社や神麻続機殿神社では、御衣を織る様が見られます。 お伊勢詣りをすると、とても簡単に時間旅行をして、御先祖様の生活を覗くことも出来るのです。 ではお伊勢詣りも済んだので、ここで少し『第六天』の登場人物の一人、素盞鳴尊‐すさのをのみことに登場していただきましょう。 古事記や日本書紀に掲載されている国創りの神話や高天原の神様の話は、大変面白いのですが、あまりにもたくさんなのが玉に傷です。これは日本が八百万の神様を持っているだけに仕方ないのでしょうが… 亡くなったイザナミの女神を惜しんだイザナギの神は、黄泉の国まで追いかけて行きますが、女神の変わり果てた姿に肝をつぶして逃げ出してしまいます。怒った女神の追っ手を振り切ったイザナギは、穢れたと言って、九州 ・筑紫の海で禊祓いをします。 仕方なくスサノヲは、姉のアマテラスの所に暇乞いに行きましたが、その様子があまりに荒荒しいので、アマテラスは弟が彼女の国を乗っ取りに来たのだと思います。スサノヲは自分に逆心のないことを示すために、「ウケイ」という誓いをして、まずアマテラスがスサノヲの剣から三人の女神を生みます。次に弟は姉の勾玉から五人の男神を産みました。これで叛心のないことが証明され、(なぜそうなるのか分かりませんが…)スサノヲは高天原に迎え入れられます。 ところがこの後彼は大暴れをした挙句、アマテラスの天の岩戸隠れを引き起こし、結局天から追放されてしまうのです。 追放されたスサノヲは漂浪し、今の出雲の国にやって来ると、八俣遠呂智と言う化け物の生贄となった、櫛名田比売を助けることとなります。スサノヲは、クシナダヒメの両親に強い酒を造らせ、それで酔わせてヤマタノオロチを見事退治します。 一方スサノヲは姫を娶り、新しく国を造るところを探しました。そして清々しい所を見つけ、「我心清々し」と宮作りし、歌を詠みました。 八雲立つ 出雲八重垣 夫婦ごみに 八重垣作る その八重垣に この歌が始めての三十一文字の歌だとされ、そのためスサノヲは和歌の守り神として、また別の能に登場するのです。 |