(えびら)

 (えびら)と聞いて、「あぁ、あれね」と思い浮かぶ方は、まずいらっしゃらないと思います。源平合戦の話を聞くのも絵を見るのも好きな私ですが、こと鎧兜の名称になるとタジタジなのが正直な所です。
 今日の舞台でも、シテは梅の枝を持ってはいますが、箙を背負っておらず、また他の修羅能の中でも、合戦の様を舞うのに鎧兜は着ておりません。もちろんあんな重いものを着けては舞台にならないのでしょうが…『箙』の舞台は須磨で、『敦盛』の時にご紹介したことでもあり、今回は源平の武将のいでたちについて、皆様にご紹介したいと思います。

 まずは曲の題名でもある、箙から始めましょう。箙というのは、合戦の時矢を入れておく入れ物のことです。図でご紹介しているのは、「集古十種」所蔵の「塗箙」というもので、和田義盛のものだと言われているのを写したものです。武士たちはこの箙に矢を挿して、右腰に負いました。絵巻などで観ると、背中の上に矢が出ていて、まるで背中に矢を斜めに背負っているかのような錯覚を起こしますが、そうすると矢が取り出せないのだそうです。というのも、大変かさばる大鎧を着用していますから、右手が右肩の後まで回らないのでしょう。

 箙を始めとした、矢を盛る道具は非常に種類が多く、また古代から様々に改良されています。これは弓矢というものが、武器の主流だった証拠でもあります。

 今私達は、武士の武器というと刀を思い浮かべ、武士の芸というと、剣道を思い出します。しかしこの武器=刀剣というパターンは、秀吉の刀狩以降に産まれたものだと言われています。さらに刀はその材質(金属)と、また恩賞に使われるという性質上、保存状態も良く残っているのですが、弓矢はあまり残存している物が少ないのです。きっとそのせいで、日本の武器=刀剣、のイメージが強まってしまったに違いありません。けれども、もともと日本の中世においては弓矢が主要な武器で、防具である鎧兜も、それへの備えを第一に作られていたものでした。ですから矢入れの種類も、古代の靭(ゆぎ)から始まって、中古の胡祿(やなぐい)、箙、空穂(うつぼ)、尻籠(しりこ)と色々あります。

 靭は、古墳から出土する埴輪のうち、武装したものが背中に背負っています。古事記や日本書紀にもその名称が見られますので、ずいぶん長い間使われていたことが分ります。これが段々と進化したものが、平安期の胡祿です。
 中世ではこれを箙と同じ物として扱い、読みも「えびら」にしたりと混同していましたが、後世では武官の儀礼用に用いる矢入具を、平胡祿、壷胡祿の二系統としました。前者が軍陣用に改良され、武家が用いて形式が定まった物が箙となります。

 箙の方立という箱の部分は、大きさによって矢が本くらいから数本入るようになっています。「平家物語」に曰く、「二十四さいたる切斑の矢負ひ…」とあるのは、切斑の入った羽の矢が本挿してある箙を背負っているのですが、本くらいが丁度良い数だったのでしょうか。また同じ箙の中にも、塗箙、逆頬箙、革箙、竹箙、筑紫箙などなど、たくさんの種類があるのです。

 箙の他の一般的な矢負というと、数ある中から空穂が良く挙げられますので、こちらをご紹介したいと思います。箙と空穂の一番の違いは、、箙は方立という箱の部分に、筬の隙間を通して矢を挿した物で、矢の上部はむき出しになっています。
 が、空穂は箆(の)と呼ばれる矢の本体部分全部を包み込み、また鏃の側から引き出す所に、箙との違いが見られます。空穂には、矢が汚れず傷まない長所があるのですが、その反面、箙ほどたくさん挿せず、また取りだし難いという欠点もあるため、実際の戦闘では箙に人気があったようです。

 しかし、『箙』の源太景季のように、この箙に梅の枝を挿すことができたかというと…どんなものでしょうか。私は梅が邪魔になって、他に矢が挿せなかったか、挿せてもなかなか抜くことができなかったように思うのですが…。

 今度はその箙に挿す、矢を見ることにします。良い矢とは、早く、そして出来るだけ直線的に飛ぶもののことを言います。相手に刺さる効果を上げるため、そして威力を増すための鏃(やじり)、飛行を直線に維持するための、箆(の)、飛翔を良くするための羽、そして弓弦にはめて弾力を直接受けるための筈(はず)から成り立っています。

 まずは鏃ですが、石器時代から金属の使用時代までは石の鏃が、金属使用が可能になると銅に変わり、源平の争覇期には専ら鉄の鏃を使っていました。鏃の形は、ざっと数えただけでも種類以上あるのですが、ここでは最も残酷な腸繰(わたくり)だけ紹介します。
 腸繰型の鏃は、矢印底辺の二つの角を細長く角のように伸ばした形です。この矢が刺さり、抜こうとして引っ張ると、角が体内の腸に引っかかって繰り出してしまい、傷を大きくするという残酷な殺傷力の大きい矢です。

 次に箆ですが、こちらはほとんどが篠竹でできています。「射学大成」によると、矢材としての篠竹の産地では、山城(京都)と河内(大阪)が最もよいとされ、次いで三河、駿河、宇津ノ谷、信州下伊那、伊豆、相模などが挙げられています。

 羽は、どの鳥のものを使っても良いのですが、普通は尾の羽が使われ、また大型の鳥が好まれました。鷲の羽根が最も好まれ、次いで鷹、鶴、鵠‐くぐひ(白鳥のこと)も珍重されたそうです。先ほどの「切符の矢」とは、このうち、鷲の尾羽で白地に黒い線が二本入った模様のものを言います。

 最後に筈ですが、矢の羽に近い端の頭に、弓の弦が食い込んで安定するように、溝を掘ります。この溝を筈といって、箆をそのまま彫った物から、牛や鹿の角で作ったものをはめ込んだ高級品もありました。

 矢を使っての攻撃は、そのまま手に持って相手を刺したり、吹き矢にしたりといった特殊なやり方もいくつかあったそうですが、ほとんどの場合、弓に番えて遠くの相手を射るのに使われました。良い弓を持つことは良い武士である証明でもあり、『屋島』での義経が、弱い弓を持っていることを敵に悟られまいと、命を張って弓を拾うのは、それを良く表した故事であると言えます。

 日本の弓は、世界でも大型で有名です。背も小さく、乗っている馬も小さい日本人が、なぜ弓ばかりそんなに大きい物を使っていたのかは謎ですが、正倉院所蔵の弓も、六尺六分(183.6cm)から、八尺五寸(259.1cm)までのものがあるので、古代から大きい弓を好んでいたと言えるでしょう。
 なぜこんなに長さが違うのかは、古来弓の長さは手で握って測ったものなので、握る人間の手の大きさによって、長さに違いが出て来てしまうのです。弓は竹と木を削ったものを幾つも上手く組み合わせて、一本の竿にし、両端をたわめて麻で出来た弦を張って完成します。この時、一人で張るか、又は複数で張るかで弓の強弱が決まり、かの鎮西八郎為朝の持っていたのは、五人張りの強弓と伝えられています。

 この弦は、京都八坂神社の犬神神人の内職で作られ、「弦召せ」と言って武家のもとを売り歩き、また戦時には、陣内まで弦を売りに来る商人もいたそうです。いくら良い弓と矢を持っていても、弦が張っていなければ、正に無用の長物なので、武士は一条、二条のスペアを必ず持っているのが心得でもありました。このスペアの弦を巻いておくのが、箙の弦巻の部分です。

 源平の武将たちが好んで使った弓に、重籘の弓と呼ばれるものがあります。籘を滋く巻くことからついた名なので滋籘の弓というのが本来なのですが、室町の頃には重籐で統一されたそうです。

 武芸も、攻防揃わなくては達者といえません。この辺で、防具の鎧兜に話を移しましょう。

 西洋の鎧に比べて、我が日本の鎧、特に源平時代の大鎧はなんと美しいのかと思います。これは私の身びいきばかりではありません。
 女性の締める帯に、よく「シコロ」という模様がありますが、これは正しくは」(「革」扁に「毎」)と書いて、首の部分をカバーする兜の一部です。また今日のシテが着けている厚板唐織にも兜の模様が入って、美しいですよね。
 オペラの衣装に、中世の騎士の甲冑がデザイン化されていたらどうでしょう。あまり想像したくないものです。閑話休題。

 さて、源平争覇期は、鎧の形態が特に美しかったとされる時期でもあります。その背景には、今まで貴族の次席であった武家が中央政権に登場し、家門や名を重んじて戦場で活躍したために、その装束である甲冑も自ずと潔さ、華々しさを備え、また武人の質実さや、貴族文化には見られない豪壮な美しさを競うことになったのでしょう。

 兜は厳しく大星の鉢で、敵の攻撃を避けるため、大吹返しが左右に開き、杉なりの が肩から背、頸を覆って、弓矢の攻撃を防いでいます。

 面白いのは兜の天辺にかなり大きな孔が開いていることで、これは実は髻を出すための孔なのです。もちろんこんな所に孔が開いているのは危険な話で、頭を垂れるとこの孔めがけて矢を打ちこまれたり、また背後からこの孔に指をかけて引き寄せられ、首を掻かれることが多かったといいます。
 けれども、この孔と髻のおかげで安定性は前時代より高くなったのも事実だそうです。鎧と違い兜はほとんどが鉄製ですので、随分遺品が残っているそうです。ただし、鉄製のため非常に重く、これを長時間かぶっていることは出来ず、戦闘に入っていない時には、背に負うか、家来に持たせていました。

 鎧に関しては、ここでは紙面に限りあるので、一つだけご紹介したいと思います。先にも申し上げたように、日本の鎧は大変美しく、お城などを見学する際に、私はいつでもじっくり観察していたのですが、あの威(おどし)と呼ばれる部分がどういう造りになっているのか大変分り難いものでした。
 威も下部の草摺もそうですが、これらは札(さね)と呼ばれる革や金属の小片が繋ぎ合わさって出来ています。札を繋いでいるのは全て糸なのですが、この糸の色が即ち鎧の名称になるのです。図を参照して頂くと良く分りますが、札は横には確りと止めてありますし、また少しずつ重なっているので大変堅牢です。しかし縦には糸で緩くぶら下がっているような状態ですので、固いものにもかかわらず、体に沿ってしなうのです。

 最後の武具として、中世の武士になくてはならないもの、それは馬でした。『箙』の主人公、梶原源太景季が、「平家物語」中に登場するのも、この馬がらみの事件です。「平家物語・巻九ノ二」に「宇治川の事」という章があります。

 景季は、宇治川の戦に臨んで功名を立てたいと考え、頼朝の愛馬である生月を賜りたいと願うのですが断られ、その代わりに磨墨という馬を貰います。この馬もいずれ劣らぬ名馬ですが、いざ合戦になると、佐々木四郎高綱が生月を賜ってい、宇治川の先陣も彼にしてやられてしまうのです。

 ともあれ鎌倉幕府では、武士が精進すべきこととして、「弓馬の道」を挙げ、流鏑馬を奨励します。これに見るように、馬術と弓術は武士が鍛錬しなければならない第一のことであり、心がけの良い武士ならば、良い馬を持つように努力しなければならなかったのです。

 しかしいかに良いと言え、概して東アジアの馬は小さく、現在我々が時代劇で見る、大きな馬に乗った武将の姿というのはあり得ない光景でした。生月は「八寸の馬」と評されますが、これは当時の馬の平均は四尺(121cm)で、それに対して生月が四尺八寸(145cm)あったからです。この小さい馬に総重量100kg近い大鎧を着込んだ武士が跨っていたのですが、最近ポニーで実験したところ、速度が9km/hしか出なかったそうです。それでは歩いた方が早いのではと思いますが、甲冑に身を包むとほとんど身動きが取れなくなるので、やはり乗馬の方が機動力がありそうです。それに鹿と同程度の馬だからこそ、鵯越も可能だったのでしょう。

 今回の「のうのう」で、本物の武具が見たいと思った方は、靖国神社の遊就館にお出でになっては如何でしょう。靖国神社には東京で最古の能舞台があり奥には池泉があって、これからの季節、お散歩には最適の場所です。


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