江 口
(えぐち)

 上方落語「三十石船」の一節です。どこに行くにもわらじの紐を締めて自分の足で行かなくてはならない時代、旅は疲れるものでした。西洋と違って、馬や乗り物のない日本では、足を使わないで移動出来るのは船くらいだったかと思われます。

 京都-大阪間を結ぶ旅人の足として江戸時代に活躍したのが、淀川筋を航行するこの三十石船です。

 淀川は琵琶湖を水源とし、始めは瀬田川と呼ばれます。瀬田川は京都の天瀬ダムあたりから宇治川と名を変え大阪に向い、途中山崎(大阪と京都の間)で桂川と木津川と合流し、大阪平野を流れて大阪湾に注ぎます。
 三川合流点あたりから大阪湾までの川の呼称が淀川ですが、この呼び名が定着したのは江戸時代に入ってから。それまでは、例えば古事記には「鵜河」と記され、日本書紀には「北の河」、また難波古図などには「山崎川」「近江川」といった表記が見られるなど、様々な別名がありました。

 三十石船の船路は、京都の伏見から大阪の道頓堀までを結ぶものでしたが、淀川を使った水運は江戸期に入ってから開発されたものではなく、もっと古い時代からあったものでした。
 能『花筺』のワキとして登場する継体天皇が即位し、その宮に選んだ地樟葉宮や筒城宮・弟国宮あたりは、桂川・宇治川・木津川の合流点の淀川でした。近江出身の父と、越前出身の母を持ち、北陸・近江を中心とした豪族であった継体天皇の勢力範囲は尾張、東国にも及んでい、また淀川沿いの三島や茨田郡辺りの豪族支援も強かったと考えられています。
 継体天皇にとって、淀川水系はまさに勢力範囲を結ぶネットワークであり、宮を淀川水系に営んだ理由がよくわかります。しかし大和地方の豪族を基盤とした天皇の時代になり、淀川は世の流通の中心的役割を、奈良盆地と大阪湾を結ぶ河川に譲ることになります。

 その淀川の水運が飛躍的な発展を遂げたのは、桓武天皇の平安時代に入ってのこと。延暦三年(784)に都が長岡(長岡京)に置かれ、更には平安遷都(794)が行われると、大和川水系の地位が低下し、瀬戸内海を航行してきた船は難波津に寄港することなく、三国川から淀川を経て京に通じる、淀川水系が重要視されるようになりました。これによって、淀川上流の淀津や山崎津が繁栄をみます。

 淀川を人の往来が増え、川沿いの地が開けて賑やかになった背景には、首都である京都への物流だけではありません。平安中期頃から王侯貴族の、熊野・高野山参詣、天王寺・住吉大社などへの参詣が盛んになったことも大きな理由に上げられます。

 旧淀川の天満橋から天神橋辺りは、十世紀の末頃から渡辺津と呼ばれます。淀川の河口に位置するこの地は、早くから瀬戸内海交通の要港でしたが、特に延暦二四年(805)に摂津の国府が設置されると、人の往来や船舶の出入りが盛んになりました。
 これに拍車をかけたのが熊野詣です。熊野街道が発達する中、渡辺津はその出発点としての位置を占めるようになりました。輸送してきた年貢物を一時保管する事務所や倉庫も設置されるようになり、この場所は、平安から室町期にかけて、最も繁栄を見ることになります。

 ここから淀川を遡ると、神崎川との分岐付近が謡曲『江口』の舞台となった江口の里です。渡辺津が国府であり、政治や経済の中心といった堅い顔を持っているのに比べると、ここ江口は遊女の里として知られ、華やかな歓楽の中心地といった性格を濃く漂わしていました。
 ここが盛んになるのも、平安時代中期以降であり、王朝貴族が熊野や高野山、そして天王寺や住吉詣の往き帰りに立ち寄る、賑やかな宿場となりました。

 遊女で有名だったのは江口ばかりでなく、神崎川の河口に位置する神崎も名高い遊興の地でした。『遊女紀』の著者・大江匡房は、京から淀川を下る際は江口の遊女を愛し、西国から京に上る際には神崎の遊女を愛すことになっていたと書いています。
 貴族達の中には、江口・神崎の遊女・白拍子らに歌舞・音曲を奏させ、今様を謡わせて乱舞する者も多かったそうです。匡房によると、かの藤原道長も東三条院の住吉・天王寺参詣に随行した折、江口の遊女の一人・小観音を寵愛したと書かれています。
 都を離れ、窮屈な宮仕えを離れた参詣の旅は、現代の私達が信心と結びつけて考えるものよりももっと気楽で、物見遊山的な性格の強いものだったに相違ないでしょう。

 始めに紹介した如く、旅人達は船で淀川を下っていますので、その袖を引く遊女達もまた、船で旅人に近づいて行きました。その情景を匡房は次のように記しています。

 「倡女が群れをなして、扁舟に掉さして旅舶につけて枕席を薦める。声は素晴らしく、韻べは水風に漂うようである。天下第一の楽しき所である」

 この舟遊女の情景は源氏物語の中にも描かれています。許されて明石から京へ帰還した光源氏が、住吉大社へ参詣するくだりの書かれた「澪標‐みおつくし」の巻に、「住吉参詣を済ませた一行は、珍しい遠出にはしゃいで、位の高い人でも若くて好奇心旺盛な人は、小船を漕いで集まって来る遊女達と楽しくやり取りを交わしている」とあります。
 ただし光君は遊女には興味ないようです。源氏は、「恋の面白さというのは、恋の相手に尊敬すべき価値があってこそのもの。軽薄な者には最初から興味が持てようはずがない」と言い、遊女相手にはしゃぐ人々を軽蔑しています。どんな相手でも選り取りみどりだった光君にとって、春を売ぐ相手など、確かに必要なかったでしょうが…

 遊女に用のない二人ですが、源氏一行も住吉詣、『江口』の西行法師も天王寺参詣の途中と、江口の里は、京都から難波方面へ寺社参詣に行く際必ず通過する場所だったということは、ここからでも推し量られます。では、現在の江口の里はどんな場所なのでしょうか。

 大阪市東淀川区江口。これが現在の住所表記です。ゆかりの名である「江口」は健在です。また、謡曲の旧跡として、通称「江口の君堂」、寂光寺というお寺も残っています。
 今、どのような場所かというのは、タクシーの運転手さんの言葉を借りるのが手っ取り早いかもしれません。江口の寂光寺に行って欲しいと頼んだ私に、

 「田舎やからねェ。オッちゃんもよう分からんのや。」

 淀川の水運が廃れた今となっては、郊外の新興住宅地というような土地柄となっているようです。しかし気をつけて歩くと、古い歴史のあることが何となく見えてくる町でもあります。

 阪急電車の上新庄駅で降り、そこからバスで五分。「江口の君堂というバス停で降りるとすぐに、江口の君堂の参道となります。

 この寺の正式名称は「宝林山 普賢院 寂光寺」西行法師と歌を交わした遊女・江口の君(妙の前)が仏門に入って創立した、天台宗の寺だと伝えられています。後の江戸時代になって、普門比丘尼という尼が日蓮宗に改宗しました。江口の君ゆかりの寺らしく、現在でも、日蓮宗には珍しい尼寺として続いています。

 江口の君・妙の前は、平資盛の娘とも、また藤原為盛の娘とも伝えられています。なぜ一応都の貴族の娘であった妙が、都を離れ江口にやって来たのかは分かりませんが、ここが彼女の乳母の故郷だったからとも、叔母である濡之禅尼を頼って来たからだとも言われています。
 落剥した身を歎いていたのもつかの間、生きていくために、妙の前は旅人相手に春を売ぐ、遊女となりました。しかし西行との邂逅がきっかけとなった妙は、仏門に入る決心をします。そして名を光相比丘尼と改め、江口の里に庵を結びました。
 妙はその余生を、この里の遊女や白拍子たちの悩みを聞いたり、相談に乗ったりして過ごしたと伝えられています。そしてその没後、江口の里に済む遊女達は、妙を慕い、その冥福を祈って庵の後に菩提寺を立てました。それが今も残るこの、江口の君堂だと、寂光寺の縁起は伝えます。
 寂光寺には、狩野元信の描いた「妙の前の像」の絵や、木造の妙の像が寺宝として大切に守り継がれています。毎年四月十四日の妙の命日には、この絵が特別公開されます。また、詩歌管弦の道に優れた妙の前のお寺にふさわしく、歌人・俳人の崇敬も集め、ここの書院では俳句の会などが良く行われるそうです。

 旅の歌人西行を尊敬し、師と敬った俳聖・松男芭蕉は、『奥の細道』の旅の終り頃、ある宿で襖越しに洩れる声を聞き、相客が新潟の遊女だという事を知ります。
 この時芭蕉の頭をよぎったのが、西行と江口の遊女・妙の出会いでした。芭蕉は、世を捨てたに等しい身の上の自分を月に例え、はかなく花と咲く身の遊女を萩の花に例えて一句詠みました。

一つ家に 遊女も寝たり 萩と月

 この時芭蕉は、妙に宿を借るために声をかけた西行と自分とをだぶらせて、頭の中で隣の部屋の遊女に声をかける空想をして楽しんだのではないでしょうか。

 江口の君堂には、常に俳句を入れるポストがあります。もしこちらを訪れる機会がありましたら、ぜひ一句入れてみてはいかがでしょうか。


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