藤 戸
(ふじと)

 寿永三年二月七日の、一の谷の合戦の後、平家は海を渡って屋島(今の香川県高松市)に逃げ、そこに居を構えました。対する源氏方は、この合戦にて討ち取った首級、また生け捕りになった平重衛の身柄を鎌倉へと送るため、一旦都へと戻ります
。後白河法皇は、平家が安徳天皇と共に都から持出した三種の神器を、重衛の身柄と交換しようと屋島へ使いを渡します。が、神器を渡してしまっては、名実と共に朝敵となる…それを恐れた知盛の意思は固く、勅使は空手で帰ることになったのです。

 一方都の源氏方ですが、捕虜の重衛の扱いなどの戦後処理、新帝の即位、そして除目に追われ、新たな平家追討の軍が発したのは夏も過ぎ、秋となった九月二十日のことでした。ただし、今回の戦では総大将・源範頼のみが出陣し、二七日に播磨の室の津に陣を置きました。

 平家方もこの数ヶ月を無駄に過ごしたわけではありませんでした。もとより西国に威勢を誇った武士の頭領です。一の谷では義経の奇襲に裏をかかれ、散り散りに四国・屋島に逃げ渡りましたが、今度は得意の船戦と、平資盛・有盛、そして悪七兵衛景清などの武将らが、船五百余艘を率いて備前の国・児島に陣を構えました。
これを聞いた源氏も室を発し、対岸の藤戸に陣を構えたのです。ところが、源氏方には船はなく、海峡を隔てた平家に攻め入るすべがありませんでした…

 これが謡曲『藤戸』で語られる、源平の藤戸の合戦の背景です。現在の藤戸はかつての海峡が、長年に渡って河川の運んだ土砂の堆積と江戸時代から続けられた干拓で完全に埋まり、佐々木盛綱が馬で渡った浅瀬など想像に任せるしかない、穏やかな田園となっています。
比較的近い距離に、戦にまつわる様々な伝承の地が点在しているので、一日かけてのんびりと史跡めぐりをするには格好の地といえるでしょう。それでは、皆様を藤戸史跡廻りにご案内いたします。

 藤戸は備前の国、つまり現在の岡山県にあります。東京から藤戸に行くには、岡山で新幹線を乗り換え山陽本線の倉敷で降りてバスに乗るのと、岡山からJR瀬戸大橋線を使って茶屋町駅で降り、バスに乗るか徒歩の二つのルートがありますが、全て歩いて周るなら倉敷からバスを使うほうが断然お勧めです。
 これにはもう一つ良いことがありまして、こちらから史跡を周ると、佐々木盛綱が先陣を切って平家の陣に挑んだそのままの順番に歩けるのです。今回私もこのルートで藤戸を廻ることに致しました。

 倉敷駅からJR茶屋町駅行きのバスに乗ること約十五分、最初の史跡である乗り出し岩に着きます。史跡といっても、街道沿いにそこだけが小高い小さな丘があり、岩肌がむき出しになっていると言うものです。
 盛綱は、浦の男に馬で渡れる浅瀬を教わった後、ここからほぼ直線の経路を辿って、反対側の平家の陣地に先陣を果したと伝えられています。

 この乗り出し岩から県道沿いを十五分ほど歩くと、街道からほんの少し入った所に、御崎神社(おんざきじんじゃ)があります。ここは盛綱が出陣前に社頭の松に旗を立てて、戦勝を祈願した場所です。
 ここの由来はわかりませんが、かなり古いお宮さんであると言われているそうです。小高い丘の端、丘上に東南に面して社殿があり、かつては海で今丘である高い所は飛島になっていた藤戸の辺りの地形が飲み込めます。

 神社のある丘の裾を廻るようにめぐらされた道をたどっていくと、有城(あるき)の集落の中に入って行きます。太陽の国・岡山らしく、日がさんさんと降り注いで、集落は穏やかに静まりかえっていました。
 風は少し冷たいのですが、日が照ると天気晴朗とはこのことかと納得できるような日で、途中新幹線で通った関が原が雪景色だったことは、同じ日の出来事とは思えませんでした。
 有城の集落はこの辺りでも大分古い集落のようで、瓦屋根に黒板塀の、味のある家並みが続きます。この集落のメインストリートを外れ、先ほどの御崎神社と同じ丘の、別の突端を登ると、一軒の家の壁際に蘇良井戸(そらいど)があります。

 源範頼率いる源氏方の軍は、この丘の上に布陣し、ここの井戸を飲み水に使ったと伝えられているのです。石造りの井戸は木の蓋の上から青いシートでしっかりと覆われ、容易に中など覗けないようになっていました。
 が、井戸の傍の石には、ブリキのバケツが逆さまに置かれていて、それを見ると今でも水が涸れずにあるというのが信じられるようでした。昔海だったこともあって、藤戸の辺りでは飲み水に困ることが多く、この井戸は近世・現代を通じて有城の人々の喉を潤おして来たそうです。

 道は有城の集落の中をぐるりと廻り、瀬戸大橋へと続く高速道路をくぐって田んぼの中を抜けると、盛綱に殺された男の母が、盛綱を恨んで「佐々木憎けりゃ笹まで憎い」と言って山の笹を引き毟り、以後笹が生えなくなってしまったと言われる、笹無し山に通じています。
 この逸話は、この地方の昔話となって語り継がれています。私は憶えがないのですが、喜正は子供の頃に「まんが日本昔話」というテレビ番組で、老婆が笹を毟っている光景が非常に印象深く記憶に残っていると言います。

 さすがのおばあさんの恨みも歳月で和らいだのか、それとも盛綱が行った法要が効を奏したのか、笹無し山は笹で覆われ尽くしていました。山とつくのが可笑しいほどここは小さな山なのですが、裏側に廻ると底彼処に岩が出ていて、かつて海中から突き出た場所だったことに納得が行きます。笹無し山には詳しい案内板も建っていて、車や散歩の人が立ち止まってはその由来を読んでいます。

 笹無し山から鞭木跡に向かいます。瀬戸中央自動車道に沿って歩き、倉敷川を渡ります。中洲を挟んで一本目の橋は「御崎橋」、二本目は「鞭木橋」と由来の名前がつけられているのが、何やら嬉しいところです。
 倉敷川には取水関が点在し、二本の橋の袂にも関が取り付けられていますが、そこから用水路が網の目のように広がって、かつては海底だったこの平地を潤おしています。
 鞭木のある粒江の集落も田圃の真中にあって、どの道も横は用水が流れて、田や畑に注ぎ込んでいます。今ではコンクリートで固められたこれらの用水も、往時は緑の土手を持つ小川だったのかと思うと、澱のよどんだ用水は辺りの田園風景とは裏腹に、少し物悲しく見えました。

 鞭木は、盛綱が海峡を渡る際に少し馬を休ませた小高い場所です。盛綱が持っていた鞭を刺したところ、それが育って大木となったという伝説があります。
 鞭木跡は地神の祠があり、境内は小さな遊園になっています。ここは黒板塀の大きな二軒の家の間を入った場所で、入口にはお地蔵様の祠もあり、隅にはブランコが風に揺れていました。
 一つは大人が楽に腰をかけられる高さ。板も頑丈で分厚いのに、もう一つは私のくるぶしほどの位置で薄い板なのは、きっと近所の人たちが、小さな子供を連れてふらり立ち寄るところらしく、木は枯れても、ここが忘れられることはないのだろうと心が和むようでした。

 鞭木からは盛綱が、馬で渡海をした経路を辿ります。途中瓦屋根に黒板塀の真四角な、古びた、しかし良く手入れされたお堂を見つけました。中を覗くと三畳分の畳敷きの向うの壁に弘法大師の軸が掛けられ、その手前にはお線香とお灯明。畳の上には小さな座布団が重ねられ、花も飾られて清げな佇まいです。
 ははあ、やはり四国の対岸で、この当りも大師信仰が厚いのだなと察せられました。関東育ちの者の目には馴染みがなく、道端にこういうお堂が当りまえのようにあると、違う土地に来たのだと旅情を誘われます。ガラス戸は数を合わせる南京錠がかかっており、きっとご近所の方は、皆番号を知っているのでしょうね。お堂のそばの空き地には、仏の座が群れ茂り、気の早い花を咲かせていました。

 お堂を過ぎると先陣庵はすぐそこです。ここは盛綱が上陸した場所で、戦後先陣の功によってこの地を賜ると、盛綱は寺を建てて浦の男をはじめ、合戦で死んだ全ての将兵の霊を慰めたと伝えられています。
 現在では、西明院というお寺と金毘羅様とで三つ一緒になっていますが、このお寺と金毘羅様はもともとこの裏の種松山の高い所にあったのが、下に降りて来たものだといいます。
 先陣庵横の金毘羅様へ、階段を上っていくと、向かい側に乗り出し岩や御崎神社、そして東側には平家が陣を敷いた正森山などが良く見えて、良くぞ物見に絶好なこの場所に上がったものだと感心してしまいました。

 先陣庵から、盛綱が新領地に赴任した際、土地の有力者に服従を求めて誓紙を書かせ、その墨をする水を汲んだと伝えられる誓紙の井戸を経て、浮き州岩へとやって来ました。浮き州岩の辺りが、藤戸の合戦の主戦場となった場所だと言われています。
 ここはかつての藤戸海峡の浮島で、汐の干満に関わらず、ここだけはいつも頭が出ていたといいます。またこの浮島には赤黒い光沢のある大きな岩があって、後に織田信長によって京都に運ばれました。この石を手に入れた者は天下を手に入れると言われたそうですが、現在では醍醐寺の庭に置かれ、藤戸石の名で知られています。

 浮き州岩から平家の本陣があった正森山を右に見て歩くこと五分で、藤戸寺につきます。ここは行基菩薩の開山と歴史も古い名刹で、天平年間には塔頭十二坊、十二院に及ぶ末寺を抱える壮観を誇りましたが、長い平安の間とそれに続く源平の戦で、盛綱が入国した頃にはすっかり荒れていたようです。
 盛綱は、藤戸寺を復興すると共に、源平両軍の戦没者の霊を慰め、また浅瀬を教えた若い漁師の霊をまつるために、大法要を執り行います。そして寺の前の小島に経塚と供養塔を建てました。これが現在の経が島です。

 倉敷を訪れるついでに藤戸の合戦跡も見てみようか、といった場合や、全部の史跡を見る時間の無い場合、藤戸の合戦と佐々木盛綱について知りたければ、藤戸寺のみに行くことをお勧めします。
 というのも、藤戸の史跡保存会の代表であり、藤戸の歴史について最も詳しいのが、このお寺のお住職・北村さんなのです。

 藤戸寺を訪れるた私は、お寺の庫裏で色々とこの地のお話を伺うことができました。

 現在藤戸を訪れても、丘に囲まれた田園地帯とした目に移らないのですが、何度も言うようにここは海辺で、丘は全て海に浮ぶ島だったのです。お住職が仰るに、かつての藤戸を見たいと思ったら、瀬戸大橋に近い鷲羽山に行くと良いとのことでした。
 お住職は、手作りの大きな絵地図をテーブルに広げて説明して下さいました。その地図は、かつての藤戸の海岸線を推測して起こしたもので、源平の布陣や盛綱の先陣の経路が記入されていました。
 藤戸寺の辺りには平家の軍船が数多係留され、向側の船を持たない源氏をあざ笑うかのようです。その地図を見ながら自分の歩いた道をたどると、確かに鞭木の辺りは他よりも少し土地が高く、また渡海の丁度半分程度で馬も休ませたい頃合であると、掌を指すように、納得が行くものでした。

また、かつて海峡であった藤戸が、なぜ乾いた土地へと変わったかについても、大変詳しく解説してくださいました。

 この藤戸は江戸時代までは海上交通の要所であったそうです。今と違って船も小さく、諸所で食料や水を補給しつつ航海しなくてはならない時代、藤戸のような島が点在し、波穏やかで涌き水のある所は、格好の港であったそうです。
 この航路は、江戸時代の初期まで使われますが、高梁川の土砂の堆積などで、どんどん浅くなり、また造船を作る技術も発達しまた船のサイズも大きくなると、かつてほど水深の浅い場所は航行できなくなりました。そこで、江戸時代にここの領主となった池田候は、藤戸の干拓を進めます。

 ここが干拓された地であるのは、古い道路からも分かりますよとお住職が教えて下さいました。丘の麓の、湾になった場所を堤防でまず閉じるそうです。そして干拓しますが、堤防だった所は道となります。
 それを繰り返して行くと、田畑に沿って、曲がった道が幾重にも重なるようにできていくのだそうです。確かに、家並みからここは古いのだろうと見当をつけた有城の集落の道は、丘の回りを青海波のような形に廻っていました。

 また、かつて海であった所から、川に近い平地では、井戸を掘っても塩水しか出ないそうです。穏やかな天候に恵まれる土地ですが、唯一、水が不自由なのですよとお住職さんは笑いました。
 そして続けて、ですから真水が出るのは、丘の上だけなのです、と話してくださいましたが、盛綱所縁の蘇良井戸も誓紙井戸も、確かに丘の上にありました。また電気工事や下水道工事で地面を掘って出た水も塩水ならば、ヘドロも塩分を含んでいるので、用水路や河原に捨てることは厳禁なのだそうです。

 もう一つ興味深かったことですが、堤防で閉めて干拓した畑地には、最初に綿を植えたそうです。少し塩分がある土地のほうが良質な綿が取れ、塩と綿は児島や藤戸の名産だったと聞きました。その影響で、今でも倉敷には紡績や繊維関係の会社-クラレ等-が多いのだと言うことでした。

 沙羅双樹の花でも知られる藤戸寺を後にして、盛綱とは関係ありませんが、この辺りの古い神社を二つ訪れ、倉敷川の見える遊歩道を歩いて、JR茶屋町駅へ。ほぼ一日で、源平の戦から町の歴史まで、盛り沢山の藤戸行きでした。

 最後にお土産情報を少し。藤戸寺の門前には、名物『藤戸饅頭』が売られています。甘酒の入った皮を使う、ちょっと珍しいお饅頭です。また藤戸寺の前の県道沿いには、今や都会では余り見られない、鯛焼き屋さんがありました。
 ガチャガチャと鉄製の鯛焼き器をならしつつ、ねじり鉢巻、くわえ煙草のおじさんが香ばしい香りをたてて次から次へと、鯛焼きを焼いていました。もし藤戸へお越しの際には、是非ここで鯛焼きを買って、お寺の藤棚の下で召しあがって下さい。


menuに戻る

top