船弁慶
(ふなべんけい)

 平家物語は「祗園精舎の…」という言葉で始まります。ここは学校で暗記させられることの多い箇所ですので、大抵の方が耳に覚えがあることと思います。物語はこの調子で語られるのですが、すぐ後に「驕れる者久しからず…猛き者も終には滅びぬ…」の句が続きます。平家物語、と銘打っているにもかかわらず、平家一門を称える物語ではないのです。全編通読して始めの四行に戻ると、それが平家の行く手を暗示しているように思うのは、私だけでしょうか。

 驕る平家を滅ぼしたはずの源氏もまた、非常に悲劇的な最後を辿ることになります。まず運命の女神に見放されたのは、都から最初に平家を追い落とした義仲
 。西海に一門を滅ぼした若き英雄義経も、結局は実の兄に追われ遠く陸奥まで落ち果て、最後は騙まし討ちのような形でその生涯を終わるのです。頼朝とて例外ではありません。
 彼は武士らしくもなく落馬し、それがもとで不可解な死を迎えます。そしてその後を継いだ者も結局は同族に討たれ、源家が基礎を築いた鎌倉幕府は、平家の流れを汲む北条家によって繁栄を迎えるのですから。

 能『船弁慶』は、義経の都落ち‐大物浦から船出をする様を演じるのですが、これが文治元年十一月六日と伝えられます。平家一門が壇ノ浦で海の藻屑と消えたのは、文治元年三月二十四日のことですから、一躍ヒーローとなった義経が勘勅の身となるまで、実に七ヶ月半…まさに春の夜の夢の如し、です。

 義経の逃避行は大物浦‐今の兵庫県尼崎市大物町辺から始まります。現在の大物町はかつての中世の港町の面影など片鱗もなく、埋め立て地に工場の立ち並ぶ町に変わり、海岸線も遠く、海の匂い等どこへやらといった町になっています。唯一、駅からほど近いところにぽつんとある厳島神社だけが、源平時代の名残を伝えているかのようです

 義経主従は、はじめ西国、つまり九州方面へ落ちる予定でした。大物浦を出帆して九州を目指すと、右手に、義経の名を一躍有名にした鵯越と一の谷の戦場跡を見ることになります。
 しかし彼らの乗った舟は、栄光の場所を見ることもなく激しい海風に翻
弄され、義経によって命を落した平家一門の怨霊が波間に浮かび上がり、行く手を阻むのです。
 中でも壇ノ浦の合戦で平家を統率した、新中納言平知盛の霊は薙刀を振りかざし襲いかかります。この知盛という人は、平清盛の四男で、二位の尼
(平時子)から産まれました。
 清盛の長男は重盛、通称小松殿と呼ばれ、物語の中でもいつも父親を諌める役どころですが、彼の母は平時子ではありません。この人が早く死んでしまったため、時子腹の宗盛が清盛亡き後の平家の頭領となり、すぐ下の弟であった知盛が、補佐役となっているのです。

 平家物語の中では、平宗盛は優柔不断で臆病な大将失格の人として描かれていますが、知盛は決断力もあり、特に水軍に能力を発揮した将だったようです。そのため壇ノ浦の戦いでは、宗盛に代わって全軍の統率をしていました。

 源平の戦い、特に源氏側の総大将が義経となってからの戦いは、実に壇ノ浦まで両軍はまともに兵をあわせていません。奇妙と言えば、大変奇妙な戦争です。
 これは義経の奇襲が成功したためと言ってしまえばそれまでなのかもしれないのですが、まず一の谷の合戦では、裏の崖から転がり落ちてきた数十機の源氏に、不意をつかれて平家は陣を払ってしまいます。屋島の戦いでも同様で、嵐をついて上陸した、義経率いる先遣隊を大部隊の来襲と勘違いして、平家は海に逃げ出してしまうのです。
 そして襲ってきたのが小部隊であったことを発見しても尚、伏兵の存在を恐れて事を構えないうちに、源氏側は梶原率いる本隊が到着し、本当に大軍になってしまい、正面衝突を諦めた平家は長門の国・彦島へと去ります。そして義経が船戦に不慣れであることにも期待し、今度こそ背水の陣を敷いて源氏を迎え撃とうと、義経の襲来を待つのです。平家が本陣を置いた彦島は下関市の南側にあたり、現在は本土と二本の橋でつながる緑の濃い島です。

 対する義経は、熊野水軍の別当湛増を味方につけ、関門海峡の北よりに位置する、満珠・干珠島辺に水軍を集めます。この時勢いに乗る源氏側には、各地から馳せ参じた船があわせて3千艘あまり、平家側も劣るとはいえ千艘あまりの船が対峙していたと伝えられています。

 戦いは文治元年三月二十四日の卯の刻(夜明)に始まりました。この当時の戦争の常として、まず鬨を上げます。これは大将が敵陣を前にして「えい、えい、えい」と三度声を上げ全軍がそれに「おう」と応えることです。敵方もそれに応じて鬨を上げます。

 次に「矢合わせ」があります。敵味方一斉に鏑矢を放つのです。ここまできてやっと本戦に入ります。

 鏑矢と言うのは、普通の矢の先に、鹿の角やほうの木など、固い木で作られた、中が空洞で数個の穴の開いた珠を付けた矢のことで、射ると「ヒュー」と高い音を放つのだそうです。
 もともとは狩の際に、獲物をすくませるために使ったそうですが、戦場では軍神に奉げたり、また合戦合図の「矢合わせ」に使われるようになったそうです。この鏑矢は、普通二本を箙の表側に差しておくので、「上差・上矢」とも呼ばれます。

 未明に始まった合戦は、平家側に有利に始まります。別名を「早鞆の関」とも呼ばれる、流れの早い潮流で有名な関門海峡ですが、一日のうち何度も流れの向きを変えることでも有名です。合戦の始まった時間、潮流は西から東へと流れていました。
 平家側は、何もしなくても船がどんどん進むのです。対する源氏側は流れに逆らって船を操ることだけでも苦労する状況でした。また普段は上級武士が乗る大きな唐船に雑兵を乗せ、小船に大将が乗る作戦も功を奏しました。源氏側は見当違いの船に狙いをつけ、かえって平家側から散々に射られたそうです。中でも総大将の義経は、合戦毎に鎧と直垂を着替える所から、平家一軍全体から的にされ、雨霰と矢の降り注ぐところを逃げ惑う有り様となりました。
 身の軽い義経は、かつて五条橋で弁慶を翻弄したように、あちらの船からこちらの船へとひらりひらりと飛び移って難を逃れたと言伝えられています。これが有名な義経の「八艘跳び」ですね。

 さて、盛んに勝鬨を上げて勝利を確信しつつあった平家ですが、正午を過ぎて転機が訪れます。まず息子を人質に取られていた、阿波民部重能が配下の三百艘と共に平家を裏切ります。
 実は阿波民部の裏切りは既に平家の上層部でも取り沙汰されていたことで、実際に壇ノ浦の合戦前夜に、平知盛は民部の気持ちを怪しんで総大将で一門の頭領である宗盛に、「阿波民部の首を今のうちに取ること」を上申します。
 が、宗盛は、確たる証拠もないのに、長く奉公してきた者の首を撥ねる事なぞ、と取り合いません。宗盛の、良く言えば慈悲、悪く言えば優柔不断さがこの結果を招いたのでした。この裏切りによって、源氏は正しい攻撃目標を知る事になります。即ち標的は大きな唐船に乗った者でなく、小船に乗る雑兵に身をやつした公達である…

 同じ頃、潮の流れも変わります。瀬戸内海へと流れ込んでいた平家有利な流れは向きを変え、東シナ海方向へと早い勢いで源氏を送り出し始めました。平家は関門海峡の狭い海へと押し戻されます。
 と、そこに待っていたのは、別働隊の源範頼率いる源氏の軍でした。前からは勢いに乗って攻め寄せる義経の水軍、両岸からは範頼軍と、四方から矢を射られ、平家は忽ち敗色濃くなります。そこに、今までの戦場での常識を全て変えて来た義経の、またも常識外れの命令が下ります。

…非戦闘員である水夫・舵取りを射よ

 動かし手を失った平家の船は、潮流にあざ笑われるが如く右往左往し、船上の人々は、面白いように弓矢の的となりました。

 午後四時ごろ、海上は赤旗を靡かせた平家の船が、舵を取る者もなく、そこかしこにむくろを放ったまま漂っていました。今はこれまでと見た知盛は、母である二位の尼と妹・徳子中宮、そして安徳天皇が乗った御座船に漕ぎ寄せ、覚悟を決めるよう申し上げます。そして見苦しい死に様を見せないようにと、自ら御座船を掃き清めるのでした。

 息子からもう終りだと告げられた二位の尼は、八歳になる帝を抱いて、三種の神器を持ち、海中に身を沈めます。中宮も遅れじと硯や石を袂に入れて後を追いますが、こちらは長い黒髪を熊手にさらわれ、心ならずも助かってしまいます。
 二位の尼君の入水を皮切りに、一門の者はことごとく海中に入ります。義経の好敵手、能登守教経もこれにならいました。そして一族が皆海中に投じたのを見て、知盛も「見るべき程の事をば見つ。今は只自害せん」と言い、鎧を二着に及び、乳兄弟と共に腕を組んで入水しました。ここに平家は亡び、源氏の世となったのです。

 関門海峡は今でも潮流が流れています。その違いは往来する船を見れば一目瞭然です。私の見た時間は午後でしたから、源氏方の攻撃の時間でした。潮流に乗った船は滑るように東シナ海を目指して消え去ります。
 しかし、反対側からやって来る船は、いつまでもいつまでも視界から消える事がないようでした。それはまるで、敗れ去ったはずの平家が、平家物語のうちに八百年の長きに渡って生き長らえる、そんな有り様を映しているようでもありました。


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