鉢 木
(はちのき)

 謡曲『鉢木』は、鎌倉幕府・第五代執権の北条時頼にまつわる伝説が元になっています。つまり世阿弥(もしくは観阿弥)の創作なのです。

 しかし創作もここまで大きくなると、史実と比べて、どちらが事実なのか疑うほどです。と言うのも、鎌倉幕府と御家人との関係を簡単に現した有名な「いざ、鎌倉」という言葉も『鉢木』から生まれていますし、また僧業で各地を廻り悪を糺す時頼のイメージもこの曲に負うところが大きいのです。もちろん「いざ、鎌倉」の文句が謡曲中にそのままあるわけではありませんが…

 しかしながら、時頼の政治が善政であったことや彼が清廉潔白な人柄であったことは事実のようです。

 北条時頼は、三代執権(しっけん)北条泰時の嫡子・氏時の二男として産まれました。母は、安達景盛の女(松下禅尼)で、こちらも賢夫人として名高い女性です。
 時頼には四代執権を務めた兄・経時がいましたが、幸いにも(?)、この凡庸な兄は四年ほど執権の座に座っただけで、病気になり、弟にその位置を譲ります。
 こうして時頼は、寛元四年(一二四六)、弱冠二十歳で執権となります。しかしこの若い執権の行動は素早く、まず同年、将軍位を廃され不満を抱えていた前将軍・藤原頼経を京都に強制送還し、その翌年には頼朝挙以来の有力御家人・三浦氏を滅ぼしました。
 そして有力御家人の合議制であった幕府の政治体制を北条氏の独裁(得宗‐とくそう‐に移行せしめたのです。それと同時に、「引付方‐ひきつけかた」と呼ばれる従来にない迅速かつ公正な裁判機関を設け、また「十三ヶ条の新制」を発布し、地頭の非法から名主・百姓を保護し、支配階級にも質素倹約を奨励します。

 時頼の質素なことは大変有名で、吉田兼好の徒然草第二一五段にもその質朴ぶりが現されています。それによると、北条宣時がある夜時頼に呼び出されたが、着て行く直垂がなく手間取っていると「夜のことだから、服装は構わずに」と仰せがあり、普段着で参内した。
 すると時頼が銚子に素焼の杯を持って待っていて、「肴がないが、召使を起こすのも気の毒だから、何でも探して見てくれ」という。宣時があちこち探すと味噌がついた壷が見つかったので持って行くと、「それで良い」と喜んで、機嫌良く何倍もそれで酒を飲んだ、という話です。

 徒然草には、時頼の母である松下禅尼の話もあり、これも大変な倹約家である事がわかります。こちらは、煤けた障子の破れを自ら小刀を手にして、その破れた部分のみを繕い、たまたま会いに来ていた兄が「それでは見苦しいし、全部取り替えたらどうか」と言うのに対し、「若い人に倹約を教えるためにしているのだ」と答えるのですが、この母にしてこの子在りとでも言ったら良いのでしょうか。

 幕府の最高権力者である執権・時頼のこのような質素な生き方は、庶民から愛される大きな原因でもあったのでしょう。時頼に廻国伝説が生まれる一因は、このようなことも背景にあったのやも知れません。

 さて、矢継ぎ早に政治改革を進める時頼ですが、康元元年(一二五六)、流行病の赤斑瘡(あかもがさ、天然痘のこと)に罹り、死を覚悟して出家します。執権の座も北条長時に譲るのですが、出家したとたんに病気が治ってしまうのです。
 しかし時頼は引退に際し、長時に嫡子・時宗が成長するまでの「眼代‐がんだい=リリーフ」であることを念押ししており、その陰で院政を敷くのです。この時隠棲したのが、北鎌倉・山ノ内の別荘で、そこの持仏堂を改めて最明寺としました。
 この別荘の跡が現在の明月院だと伝えられています。明月院内には時頼の墓所があり、この寺は紫陽花の花で有名で、通称「紫陽花寺」と呼ばれ、今も参詣客で賑っています。

 時頼はまた禅宗の熱心な保護者であり、南宋の蘭渓入道などを鎌倉に招聘して布教活動を後援しました。時頼が蘭渓のために建立したのが、鎌倉の古刹・建長寺です。
 時頼は、折りに触れては建長寺の蘭渓和尚のもとに参禅し、説法を拝聴していたようです。時頼は、仏道ばかりでなく、蘭渓を始めとする宋国からの亡命僧達から、最新の海外事情も仕入れていたのでしょう。
 彼らは、当然母国に侵入した蒙古を快く思わず、また確かな怖れを持って話したと想像できます。時宗の時代に忽然と起きたように思われがちな蒙古襲来ですが、その種はこの時に既に蒔かれていたのだと言えそうです。

 大分話が『鉢木』から遠ざかってしまいました。謡曲のもとになった、時頼の廻国伝説ですが、これが事実かどうかは多いに議論されているようです。
 どちらの説が有力かはさておき、私個人の考えでは、やはり『鉢木』のようなことが全て事実であるとは思いません。幕府公認の歴史書である「吾妻鏡」には、回国に附いては一切書かれていませんし、よしんばお忍びの旅行で、公式の記録には載らないといっても、何より交通の不便だった鎌倉時代に、幕府の最高権力者が、長い間執権の職を放り捨てて、諸国を放浪して歩いたとは考え難いのです。
 ただ、伝説と言うものは一分の真実を含んでいるものでもあります。水戸黄門の諸国漫遊と同じで、時頼も鎌倉からほど近い地方を微行で歩いたことはあったのでしょうし、また権力者として様々な情報に接する機会が多かったはずです。
 それであれば、本来行かなければ分らないような情報や、遠国の事情に通じていることもさほど奇異なことではありません。そのような正確な情報さえあれば、同じく名執権であった祖父・北条泰時をもうならせたバランス感覚の持ち主である時頼のことです。常世のような懸案も正しく裁いたことでしょう。

 圧制や非法に苦しんでいる者からすれば、公正な裁き手である、時頼のような人がいつか来てくれることを期待し、それが伝説となっていくのは当然のように思えます。
 また伝説を生む背景には、時頼が執権の座についた当時、御家人同士の領地争いが激化の一途をたどっていたという世情もあったようです。この状態を何とかしてもらいたい、と願う彼らの思いが、公正な権力者と評判の高かった時頼の来訪を待ち望んだのでしょうか。

 時頼の廻国伝説に基づいた謡曲は、『鉢木』だけではありません。現行曲ではありませんが『浦上』、そして観世流ではない『藤栄』。三つとも、事情があって領地を亡くし没落した御家人が、廻国途中の時頼に出会う事によって、旧領を復活するという同じパターンの物語なのです。

 謡曲は創作ですから、その数の多い事が真実だったという事の証拠にはなりません。『鉢木』だけ見ても、「佐野」という場所が本当に上野国(今の群馬県高崎市)であったのか、甚だ怪しいですし、もし下野国佐野(今の栃木県)であるとすれば、佐野の領主は藤原姓の佐野であり、佐野源左衛門尉常世という名はおかしい、というように伝説を否定する証拠となってしまいそうです。

 けれども高崎には、佐野常世神社がちゃんとあって、伝説でも史実でも構わないから謡曲の旧跡廻りをしたい、私のような者を迎えてくれます。周辺の定家神社や高崎城址を廻ると、東京から日帰りや一泊に丁度良いコースです。是非、お試しください。

 また鎌倉時代は、それまでの京都中心の時代と異なり、鎌倉と地方を結ぶ街道の整備された時代でもあります。そうでなければ常世のような御家人達も「いざ、鎌倉」と馳せ参じることはできません。
 鎌倉街道と名のつく道はもちろんのことですが、良く探すと、結構近くに鎌倉武士の歩いた道が残っています。町田市小野路町にもそんな「鎌倉古道」の一つが残っています。

 府中から町田へ鎌倉街道が通っています。街道から少しそれた所に、万松寺と言う一三三〇年創始の臨済宗のお寺があり、この寺がかつて所有していた山林の中に、小山田城の副城である小野路城を始め、鎌倉時代の名残が見られるのです。
 どんなにゆっくりと歩いても半日とかからない短い距離ですが、鎌倉時代を堪能できる道でした。例えば掲載している写真ですが、これは「凹道」というそうです。馬に乗った武士の移動が、他から見えないようにわざわざ切り通しを残して道を作っているそうです。
 恐らくこの辺りは、鎌倉に近いこともあり、城を守る戦を想定して作られたのではないかと推測されています。

 私は今回『鉢木』を調べるに当って、どうしても知りたいことが一つありました。それはこの曲の題名にもなっている、「鉢の木」つまり盆栽のことです。盆栽が海外では「BONSAI」と呼ばれ、既に国際語として定着し、ファンもたくさん持っていることは知っていました。
 ロンドンのソーホーのチャイナタウン、通り一本はさんだレスタースクエアは、その名の通り正方形の緑地をジョージアン調の建物が囲む、典型的なロンドンの町並みなのですが、一歩タウンに入ると漢字が氾濫し、横浜と同じような門もあって、大変エスニックな楽しい場所なのです。
 そのチャイナタウンのメインストリート、と言ってもmもないような短い通りですが、その真中に「盆栽‐Bonsai」と書かれた店がありました。いつもお客の絶えない小さな盆栽屋さんは、盆栽がすっかり海外に定着している証しのようだったのを覚えています。

 が、当たり前のように知っているこの盆栽について、いつ、どこで、どのように始まった物なのか、私は全く知らなかったのです。そこで市ヶ谷にある「高木盆栽美術館」を訪ねることにしました。

 こちらは明光商会さんという会社の社長さんが、もともと御趣味の盆栽をもっとたくさんの方に知ってもらおうと始めた、日本で唯一の盆栽の美術館です。
 近代的な明るいビルの中に、約五百鉢、四千点の盆栽・盆器を毎週入れ替えて展示をしていらっしゃいます。1頁目で紹介した、『鉢木』の絵も、実物をご覧になる事ができますし、他にも絵の中に盆栽が描きこまれた浮世絵なども飾られています。
 また、展示を見た人全員に、二階の喫茶でゆっくりとお茶を頂きながら盆栽関連の参考図書を読む事が出来る、至れり尽せりの美術館です。私の疑問も、こちらの美術館と、またインターネットを利用していられる盆栽愛好家の皆様のお蔭で、解決する事が出来ました。

 調べによると…盆栽はもともと後漢時代の中国で、「盆景」として発展しました。後漢時代の古墳の壁には、鉢植えの草花の絵が発見されており、これが盆景のごく初期の姿であると考えられているそうです。
 先進国・中国の文化を輸入するのに必死だった我等が先祖が、遣隋使や遣唐使によって盆景を輸入したのは、今から約千二百年前の奈良から平安時代にかけてだといわれています。
 その後、政権が公家から武家に代わるに及んで、盆栽の愛好も武家に広まって行ったのが、鎌倉期だと考えられます。

 その盆栽が初めて文献に登場するのは、平安末期、西行法師の事跡を描いた「西行物語絵巻」の中です。その後の絵巻物の流行により、「春日権現絵巻」や、「法然上人絵伝」の中に、初期の盆栽の姿を見る事が出来るのです。
 中国でも宋代に、多くの文人によって盆景が再び流行します。宋からの亡命者が多かった鎌倉期に盆栽が武士階級に広く浸透したのも、あながち無関係ではないのではないでしょうか。

 今回色々と調べて見て、盆栽というのは大変面白い物である事が分りました。手始めに「ミニ盆栽」から始めてみようか、と思いました。

※高木盆栽美術館は2004年11月から休館中です。


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