葛 城
(かづらき)

 大和朝廷が、その国家統一の過程で、周辺の豪族を平定し、またそれらの支配する国を飲みこんで行ったのは、今では歴史家の間で通説となっています。大和の王がその勢いを最も恐れ、またのどから手が出るほどにその地を欲しがったのが、葛城族と葛城の地でした。

 葛城の地は、奈良盆地の南西、金剛山と葛城山の山麓になります。文明の発達する最大の条件に良い水がありますが、この地は背後にそびえる二つの山からの伏流水に豊かに恵まれています。
 ここはまた、半島からの進んだ文化を取り入れやすい要地でもありました。瀬戸内海から上陸した半島文化の伝播ルートの一つに水越峠を通るものがあります。これなどは葛城に直接つながっているため、他に邪魔されずに海に出る道も、葛城族は持っていたことになります。

 葛城族がどれほど勢力を誇っていたか、またどのように大和朝廷によって滅ぼされて行ったかを知るには、葛城古道を辿るのが最も良い方法のようです。それでは、御一緒に古代への旅に出発致しましょう。

 葛城古道は、葛城山ロープウェイの入口付近から始まります。この辺りは御所の駅にも近く、住宅も多いのですが、そこを抜けて少し山に入っていくと、まず六地蔵石仏が目に止まります。

 石の表面に彫り付けられた六体のお地蔵様は、顔も定かではないのですが、何となく心が和みます。ここから南に行くと九品寺です。こちらは奈良時代に行基が興し、後に空海が再興したという古刹ですが、今では南北朝の争いで死んだ兵士を悼んだ、千躰石仏で有名です。

 九品寺を過ぎると、道は山際の畦道を進みます。途中高丘宮跡の石碑があります。四世紀頃、ここは葛城襲津彦‐そつひこ‐の本拠地でした。襲津彦は、仁徳天皇の妃・磐之姫の父です。大和族は、婚姻によっても葛城族を取り込もうとしたのでしょう。磐之姫が詠った、望郷の歌が残っています。

つぎねふや 山城川を宮上り 我が上れば 青土よし 奈良を過ぎ 小楯大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家の辺り

高宮とは聖地であり、国見をする所です。詳細な地図を作れなかった古代において、自分の国の様子を見るのは、高いところに登るしか方法がありませんでした。ですから高所に祭場を作り、本拠を置くのは、政治上大変理に適っていたのです。

 次はいよいよ一言主神社です。日本人は多神教徒、つまり八百万の神‐やおよろずのかみ‐を持つ民族ですが、その一端に産土神‐うぶすなのかみ‐信仰が挙げられます。産土神とは、つまり産まれた所の神様です。大和盆地に覇を競った豪族達も自分達の在所の神を持っていました。葛城族しかり。その神の中でもことに著名なのが、ここに奉られている一言主神です。

 この神社、俗に「一言さん」とも呼ばれています。一言であれば、どんな願いも叶えてくれるというのですが、この愛称のもともとの由来はどうして奥の深いもののようです。

 古事記の中に雄略天皇が一言主と出くわす話があります。天皇は葛城山中で猪に出会いますが、これを神だと見抜いて木に登って難を逃れます。次に共の宮人を連れて葛城山に行幸していると、天皇一行にそっくりな一団に出会います。双方が一触即発の様をていしますが、相手がついに「一言主の神である」と名乗ります。天皇は畏れかしこまって、衣服や武具を献上したというのです。雄略天皇というのは、葛城族系の皇子達を全て滅ぼして大和の王の位についた人です。結果から見れば、雄略天皇の勢いは破竹のように見えますが、その雄略ですら畏れかしこまなければならない神・一言主。そしてその神を産土神として抱いた葛城族は、古代の日本において無視できない大勢力であったことがうかがわれます。

 一言主神社が謡曲と関わるのは、葛城ばかりではありません。かの、頼光のもとに現れた妖怪・土蜘蛛の住かもこの葛城山です。境内には土蜘蛛の体を頭・胴・足の三つに分けて埋めたという、蜘蛛塚が残っています。

 一言主神社の長い参道を下り、一ノ鳥居を出ると、そこはもう長柄の宿のはずれです。葛城から海に出るルートである水越街道と先ほどの磐之姫の歌にも詠われた、奈良の北部からの道が、この宿で交差します。このため、長柄の里には歴史を感じさせる建物が多く残っています。

 その代表が、かつてここ一帯の代官を勤めた中村家、慶長年間(一六○○年代)の建築です。こちらは私邸のため内部の見学は土間からのみで、中を覗く事は出来ませんでしたが、白壁と窓格子が美しい屋敷でした。街道を更に進むと、葛城酒蔵という造り酒屋も軒を並べています。こちらのお酒は、神水と呼ばれる金剛山の伏流水を使って仕込んでいるそうです。このお酒を飲むと、神話の世界の夢が見られるかもしれませんね。

 長柄を過ぎると平地は終わり、葛城の道は山に向って入って行きます。段々畑の中を抜け、極楽寺を過ぎると、高天寺に向って山間の田んぼの畦道を金剛山へと曲がって行きます。

 高天寺への道は、ほとんど山道といっても良いほどで、途中、昼なお暗い鬱蒼とした杉の森に入ります。谷川に架かる、狭い橋を越えると、登りはますますきつくなります。真冬で、しかも氷雨の降りしきる天気というのに、汗をかくほど暑くなる頃、森が急に開けて境内に入ります。

 こちらも、行基が開き空海が再興したという古刹で、元正天皇の勅によって創建されました。もとは興福寺に属していたそうです。次の聖武天皇も深くこの寺に帰依し、あの唐の高僧であった鑑真をも、高天寺の住職に任命されたほど、位の高い寺でした。またここにはもう一つ特筆すべき事があります。高天寺、また別名橋本院は、葛城修験道の根本道場でもあるそうです。謡曲『葛城』に出てくる、役小角‐えんのおづぬ‐も、ここで修行を積んだというのです。

 現在の高天寺は一面の水田の中にひっそりと建っていて、とてもそのような大寺院には見えませんが、無人のお堂の前にも祈願の札やお供えが置かれ、変わらぬ信仰を集めている様子が伺えます。

 高天寺の背後に広がる、広々とした台地こそ、天孫降臨の場である高天台です。今ではすっかり耕地になってしまっていますが、往時はここに神々が降りてきたと信じられるような、不思議に開けた場所だったのでしょう。天気が良ければ、ここから向うに、耳成・畝傍・香久山の大和三山が見渡され、下には古の葛城の国が広がっているのが見晴らせるでしょう。

 葛城古道は、田地の中を曲がりくねって、まだ上に続いて行きます。耕地が切れると、山際に沿うようにして集落があります。村の端に高天彦神社が鎮座しています。眼下の広々とした風景とは対照的に、高天彦神社は鬱蒼とした杉の原生林に囲まれています。この神社の祭神は高皇産霊神‐たかみむすひのかみ‐なのですが、ここでちょっと一休みして、面白い話を致しましょう。

 そもそも「葛城」という地名はどこから来たのでしょうか。一言主神社に伝わる土蜘蛛伝説によると、この妖怪を蔦葛で縛ったため、この地に葛城の名がついたと言うのですが、それはどうも違うようです。「かつら」は、むしろ桂を表すのではないかとされています。葛城は「桂の木」、すなわち落葉種の高木と理解出来ます。そして日本神話に桂の木が出てくるときは、いつも一定のモチーフがあります。例えば天照大神のお使い鳥である雉が葦原の中国にやって来た時、桂の木に留っています。また彦火火出見が海神を訪れる時も桂の木に登ります。つまり上の国から下の国に来る時はいつも桂の木に寄るという共通点があるのです。ここ葛城にも、上から下という構図が見られます。なぜなら天孫が上つ国、高天原から降臨するのは、まさに高天台なのですから。

 更に先ほど話した「高宮」というものは、「高城‐たかき」とも呼ばれます。国政に必要な高い場所のことです。高城は高木とも書き習わされますので、高城=桂木=葛城というのも、あながち無理な推理ではないかと思われます。

 高皇産霊神はまた「高木の神」とも称されます。その神を始神に抱くとなると、葛城の語源が桂木であると言うのも、益々信憑性を帯びてきます。

 神秘的な山間の古社は、こんな疑問や考えを浮かべるのにふさわしい場所ですが、そろそろ腰を上げるとしましょう。

 さて高天彦神社を最後に、道は下りにさしかかります。葛城古道を更に南に進むと、山道に入る直前に、鶯宿梅と蜘蛛塚が姿を見せます。

まずは鶯宿梅の伝説から参ります。道路と田んぼの際に鶯宿梅と呼ばれる一本の梅の古木が生えています。伝説では、昔高天寺の住職が、若くして死んだ小僧の死をいつまでも哀しんでいると、鶯がやって来て「初春のあした梅には来れども、あわてぞ変えるもとの住処か」と詠んだそうです。又、この梅の横の畦道を杉の森に向って入っていくと、蜘蛛塚があります。ここの蜘蛛は、土蜘蛛とは違うようですが、やはり頭と胴を別々にして埋められたとされています。

 山道を降りきると、今度は大きな道路に沿って高鴨神社へ参ります。桜草でも有名な高鴨神社は、葛城族、別名鴨族の守り神として信仰を集め、また全国に広まる、鴨神社の総社となっています。ここの祭神は、アジスキタカヒコネ命神であり、天孫降臨の時お供について来た神々の一人です。この神社が置かれている丘が、葛城にまだある高城で、神武天皇がここで国見をして「秋津島」と名づけたというのです。もともと「カモ」とは平野が山に深く入りこんだ地形のことを指します。そして高鴨神社は、この秋津島のカモに突き出した形になっているのです。

 しかし、現在鴨神社といえば京都の上賀茂・下鴨神社が代表のように思われていますが何故でしょうか。京都の賀茂も、この奈良と同じようなカモの地形を持っていますし、賀茂氏の氏神とされています。が、これはどうも怪しいようです。京都の両賀茂神社の祭神は賀茂別雷命‐わけいかづちのみこと‐が上賀茂、その母・玉依姫‐たまよりひめ‐と祖父・賀茂建角身命‐かもたけつぬのみこと‐が下鴨というわけ方になっています。つまり、「子」と「母・外祖父」の組み合わせなのですね。

 この構図は、奈良時代から後平安まで面々と続く、藤原氏の権力を示唆しているようです。娘を後宮に入れ、その産んだ息子を天皇位につけ、外祖父である自分が政治の実験を握る…

 藤原氏も高木の神信仰を持っていますが、これも自らを葛城族の後裔とするためのようです。なぜなら高木の神=高皇産霊神は、天孫の外祖父なのです。

 藤原氏の意図は、葛城族と同系化することで最高の臣の位を獲得し、またその政治を正当化することにあったと考えられます。

 さて、高鴨神社を過ぎると全長キロある葛城古道も終りに近づきます。神社脇には葛城の道歴史文化館があり、葛城王朝の歴史を詳しく知ることが出来ます。ここから更に分ほど歩くと、峯山百体観音があり、全国から集められた石仏が参道に並んでいます。ここまで来ると葛城の道ももう終点です。実際に歩いてみると意外に山道が多いので、足元を固めて行く事をお勧めします。


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