賀 茂
(かも)

 『賀茂』の舞台は、その名のとおり京都の上賀茂神社・下賀茂神社です。この二つの神社の由来は大変古く、山城国風土記や秦氏本系帳に見られます。能の『賀茂』は、この秦氏本系帳の説話から題材を採ったものです。
 上賀茂の正式名称は、賀茂別雷社(かもわけいかづちのかみのやしろ)、下賀茂のそれは賀茂御祖社(かもみおやのやしろ)と呼ばれ、上下併せて賀茂神社とも呼ばれています。京都の人は、親しみを込めて、「上賀茂さん、下鴨さん」と呼んでいます。
 京都の祭りといえば誰もが思い浮かべる「葵祭」も、この両神社を舞台にしています。さらに、平成六年十二月十七日「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコの制定する世界文化遺産に登録され、京都だけの賀茂さんではなく、世界の賀茂神社となりました。

 さてなぜこの二つの神社が、併せて一つのように考えられているのか、それはこの二つの社に祭られている神様達がおじいさん、お母さん、そして息子の関係にあるからなのです。

 両神社の由緒略記によると、山城国風土記に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘である、玉依比売命(たまよりひめのみこと)が、毎日賀茂川に出て身滌(みそぎ)をしていると、あるとき丹塗り・白羽の矢が上流より流れてきました。これを拾い、床の間に飾り置くと美しい男神が現れ、二人の間に御子神が生まれました。
 これが賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)です。その神が成人したある日、賀茂建角身命と玉依比売命が八尋殿に群神を招いて酒宴を催し、別雷神に父神と思う人に盃を奉るように願うと、別雷神は「我は天神の御子なり」と言い、天に向かって酒盃を投げ、そのまま甍を破って天に昇ってしまいました。
 賀茂建角身命と玉依比売命、つまりおじいさんとお母さんがこれを大変悲しんでいると、ある夜の夢に、「私に会いたいならば、天羽衣と天羽裳(あまのはも)を造り、火を炬き、鉾をささげ、また走馬を餝り、奥山の賢木を採って阿礼に立て、種々の綵色を垂らして又葵楓の蘰(あおいかつらのかずら)を造り、いかめしく飾り待って下さい。」と神託あったので、夢の教えのとおりにした、その場所が、現在の上賀茂神社本殿から北西にある神山(こうやま)の麓で今もなお自然の石座(いわくら)が存在します。その石座に別雷神は降臨し、鎮座しました。
 そしてその後、天武天皇の六年(六七八)、正式に山城国に命じて造営したのが、現在の上賀茂神社です。

 下鴨神社のほうはさらに古く、創祀の年代を特定することはできませんが、最初にその名が見えるのが『日本書紀』神武天皇二年(紀元前六五八)二月の条に「当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斉していた一系流『葛野主殿県主部』」と氏族の名がみえます。
 ここで葛野氏は、賀茂建角身命と同じ祖神を持つ鴨氏と同じ氏族であったことがわかります。他にも崇神天皇七年(九○)には、社の端離が造営されたり、また旧記にも綏靖天皇(五八○)の御世より御生神事が行われていたことが記され、その創祀の古さを証明しています。

 さあ、難しい話はここまで。これから先は、能の『賀茂』のストーリーに合わせて、ゆっくり二つの神社の境内を散歩してみましょう。

まずは下鴨さんから。下鴨神社、正式には賀茂御祖神社は、比叡山から流れ出る高野川と、鞍馬の方から来る賀茂川が合わさり、鴨川と名前を変える地点に存在します。境内は大変広く、十二万平方メートルもの糺の森を有し、国宝の本殿二棟の他、五十三棟もの重要文化財の社殿が点在しています。まず入り口を入ると、右手が参道となって、まっすぐ二の鳥居に向い、瀬見の小川と呼ばれる小川で仕切られた左手は馬場となっています。
 こちらは、五月の葵祭に際してその無事を祈る、流鏑馬神事の行われる場所となっているそうです。

 

 写真の橋を渡って左手には、式内社として、河合神社があります。
 ここは『方丈記』の著者として有名な鴨長明が、禰宜として神職にあったところです。

境内にはこの瀬見の小川の外にも、奈良の小川泉川などの小川が流れ、糺の森とあいまってその林泉の美は、古くから物語や詩歌管弦に歌われてきました。

 

 また、の語源も大変興味深く、まず神が顕れるところとしての「顕、たつ、ただす」、そして御祭神、賀茂建角身命が「正邪を糺された所」、また「蓼巣」、つまり蓼科の植物が群生する所、さらには高野川と賀茂川の合流する三角州を「只州」などの諸説が有ります。
 能の『賀茂』は、玉依比売命が賀茂別雷神を身篭る話が題材のせいか、舞台は下賀茂神社であるような気がしてなりません。なぜなら「糺の森の梢より 初音ふり行く郭公」と謡に謡われるのは、間違いなくこちら、下鴨神社の風景だからです。

 

 さて、長い参道が終わりに近づくと、立派な二ノ鳥居が見えてきます。参道の終わりで小川にかかる橋を渡ると、そこで瀬見の小川は御手洗川と名前を変え、前方に朱塗りの楼門が参詣の人々を迎えます。この楼門をくぐる手前に、小さなお社があります。こちらは相生社といい、縁結びの神様です。
 このお社では、十二単のかわいらしい女房姿のおみくじを頂くことが出来ます。相生社の横には、その霊験のあらたかさからか、二本の木が途中から一本に結ばれている連理の賢木が生えていて、あまりの不思議さに京の七不思議の一つに数えられています。
 この木が枯れると、糺の森のどこかに後継ぎが出来ると言われ、現在の木も実際、四代目だそうです。

 

 さて、朱塗りの楼門を一歩くぐると白州が広がり、正面に中門、その手前に舞殿、神服殿、橋殿、細殿、供御所、叉蔵、預屋、大炊殿等などを越える建物が点在しています。
 山城国一の宮だけに、下鴨神社のこれらの建物は全て重要な文化財であり、白州や壁の白、柱の朱、屋根の茶色、そして向こうに見える糺の森の濃い緑とがなにより美しい風景を作り出しています。

 この境内は特に見るべきものにあふれていて、何を紹介したら良いか迷うのですが、やはり光琳の梅と御手洗社でしょうか。境内右手に、橋殿と呼ばれる建物があり、その前を御手洗川が横切っています。
 この川に輪橋と呼ばれる橋がかかり、その袂に尾形光琳が国宝「紅白梅図屏風」に描いた梅があります。春先、この光琳の梅は百花に先駆けて開きます。

一番奥には、疫病・災厄除けの神様、瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)をおまつりした御手洗社があります。御祭神・玉依比売命も禊をしていてご神体である矢を拾った、そのことからもわかるように両神社とも境内に小川が流れ、重要なファクターとなっています。御手洗の池では、葵祭の斎王代も身を清め、また土用の丑の日には、みたらし祭(足つけ神事)、立秋の前夜には夏越神事と様々な厄除けの神事に今も使われています。池の中心の井戸は普段水が出ないのに、土用の頃になるとこんこんと涌き出てくるため、これも京の七不思議の一つであるそうです。そして、その時の泡をかたどったものがみたらし団子。下鴨神社は、みたらし団子発祥の地でもあるのです。

 ずいぶんのんびり下鴨神社を見て回りましたが、今度は上賀茂神社に参りましょう。上賀茂神社、賀茂別雷神社は、鴨川が二手に分かれた左手の賀茂川に沿って遡った所に有ります。こちらは下鴨と違ってとても開放的な、両側に芝生の広がる参道を歩いて、すぐに二ノ鳥居をくぐり境内に入る事ができます。

 境内に入るとすぐ目を奪うのは、シンプルな建物の前に置かれた砂の山です。これは立砂と呼ばれるものです。立砂は、別雷神が御降臨した神山をかたちどったもので、一種の神籬(ひもろぎ)、つまり神が降りる憑代だそうです。また、鬼門などに砂をまいたり、清めの砂と言ったりするのはこれが始まりなのだそうです。

 二ノ鳥居の内側は国宝の本殿の他、祝詞舎、透廊等の三十四棟の建物があり、上賀茂神社のこれらの建造物ももちろん重要文化財です。上賀茂と下鴨を比べて見ると、前者は葵祭の出発点であり、後者は終着点、そして色々と神様に向って報告をする所であるせいか、境内の建物が舞台的なものが多い印象を受けます。下鴨にも、例えば舞殿といった建物があるのですが、上賀茂はそれのみならず、他にも楽屋や、土屋などの壁の無い屋根と柱の建物が目に付きます。

 こちらでは二度橋を渡らないと本殿に着く事が出来ませんが、勅使のための橋(玉橋・手前)と一般参詣のための橋(片岡橋・奥)とに分かれているのが特徴です。また本殿の前に玉依比売命を祭った片岡社があり、上賀茂神社で祭礼の行われる時は、まずここへ祭祀を行うとのこと。やはりお母さんはおろそかにできないのですね。

 そして、御手洗川。上賀茂の川は、本殿の左手から流れ出て、舞殿の手前で右手から来る御物忌川と合流し、奈良の小川となって三ノ鳥居の方向へ流れて行きます。


 上賀茂神社の祭礼で有名なものは、夏越祓でしょう。これは謡曲『水無月祓』の舞台にもなっているもので、非常に古い祭礼でもあります。

 最後が駆け足になってしまいましたが、賀茂の社散策、お楽しみ頂けましたでしょうか。余談ですが本日もう一つの演目『葵上』も、舞台は葵祭最中に起こった車争いが発端です。
 下鴨から上賀茂へと、華やかに練り歩く光る君の蔭で、悔しくやるせない御息所と戸惑うだけの葵上の争いは、葵上の死という最悪の結果となって源氏の上にふりかかるのです。

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