鐵 輪
(かなわ)
『鐵輪』の女は、市井の者であったとされています。嫉妬によって鬼となる、同じ題材を使った『葵上』が、高貴な女人であった六条の御息所を主人公に取り上げているのとは大きく違います。 二人の、嫉妬の表現の違いはこの身分の差から生じたのでしょうか。これはとても興味深い比較ですが、ひとまず、鐵輪の女が住んでいた場所へ参りましょう。 鐵輪の女の旧跡は、現在の下京区堺町通り松原下るにあり-ます。この辺りは、旧名を鍛冶屋町といい、源氏物語の「夕顔」の住んでいた(夕顔町)の近所でもあります。 この鐵輪の井は、縁切りに功ありと評判で、昔は遠く広島からも、ここの水を貰いに来る人があったそうです。いまから三百年程前の「出来斎京土産第一巻」という旅行記の中にも、鐵輪伝説と井戸のことが書かれていますから、ずいぶん古くから有名だったのですね。 夏の日盛り、路地奥の井戸は、傍らにお稲荷さんを従え、ひっそりとありました。まるでそんな生々しい伝説は間違いだよと嘯くように… さて、次なる舞台は洛北・貴船神社です。この鍛冶屋町から貴船までは、ざっと16km。昔風に言うと四里でしょうか。 現代人で、鬼でもない私は、叡山電鉄で貴船に行くことにしました。叡山電鉄は、出町柳から出る、最長でも二両編成のかわいらしい電車です。 途中修学院駅あたりで、だんだん郊外らしくなり、岩倉を過ぎると車窓の風景はすっかり田園になりました。 ここから貴船神社までオルゴールを鳴らしながら貴船川沿いを走るバスに乗り換えます。
貴船神社本社前がバスの終点です。ここの祭神は、高 神(たかおかみのかみ)で、古来より水の神として崇敬され、心願成就信仰としての「丑の刻詣」で知られます。 貴船という名前は、古くは「気生嶺」「気生根」と書かれていたと言います。大地のエネルギー、気が生ずる山、「気」の生ずる根源と言う意味だそうで、神道では、体内の気が衰えることを「気枯れ-けがれ」といい、古来当社に参拝する者皆神気に触れ、気力の充実することから、運気発祥(開運)の信仰が篤いのだそう。 またここは、雨乞いの社として名高く、その始まりは嵯峨天皇の御世にまでさかのぼります。続く霖雨に、天皇は貴船に勅使を遣わし、雨のやむことを祈願しました。以来、旱天には黒馬、霖雨には白馬又は赤馬を、その都度献げて祈願するようになったそうです。 貴船では、和泉式部が復縁を、平定重が蔵人昇任を、大宮人が加茂競馬の必勝を、そして源義経が源氏再興を、それぞれ大神様に祈ったそうです。そして、鐵輪の女もその恐ろしい願いを成就してくれるように祈ったのですね… ここ、貴船神社が一風変わっていたのは、おみくじでした。水に関係のある神社らしく、おみくじは水占となっていました。
貴船神社の本殿は、もともと今の奥院であったそうですが、貴船川の氾濫で決壊したために、今の場所に移ったそうです。鐵輪の女が詣でたのも、その奥院です。 どこで聞いたのか、それとも読んだのか、忘れてしまいましたが、こんなことを思い出しました。 「(女は)代では自分が死に、代では相手を殺して自分も死ぬ。代以降になると相手を殺して自分は生きる」 徒に年取ったのではない人は、様々なものを重ねてきています。自分よりも劣る、と思われる相手に夫が心を移したら、容姿や性格だけでなく、今まで自分の生きてきた全てが、その相手より劣っていると烙印を押されるのと、同じことでしょう。 しかし、鐵輪の女には、先の二人にはない庶民ならではの強さと無鉄砲さもあります。彼女は自分の意思で鬼となり、最初の願いであった夫の死が叶えられないと、また来るわよと念を押して帰るのです。 「時節をまつべしや まづこの度は帰るべし」と… このセリフに、ゾクッと寒気を覚えるのは、特に男性に多いのではないですか。 そんな事をつらつら考えつつ、鐵輪の女をたどる旅、最終目的地へと向うため、道を引き返し始めましたが、ふと気づくと貴船川沿いの道には、いたる所に「和泉式部・恋の道」と標識があります。 「ものおもへば 沢の蛍も我が身より、あくがれいづる 魂かとぞ見る」 (=あれこれ思い悩んでここまで来ると、蛍が貴船川一面飛んでいる そのはかない光はまるで自分の魂が体から抜け出て飛んでいるよう) 哀しい思いを歌った式部や、悪鬼となるほど思いつめた女が通った道に、何という名前をつけたものやら…「丑の刻詣りの道」とは付けられないでしょうが、商魂のなせるわざには鐵輪の女も脱帽ですね。 さて女の旅は、堀川今出川の晴明神社で終わりとなります。ここは天文博士 ・阿倍晴明を祀る神社であり、その邸址と伝えられています。阿倍晴明は、一条天皇ら六朝に仕え、天文学に通じ、星をみて宮中の変革や遠国の吉凶を判断した陰陽師でした。 戻橋には逸話が多く、嫁入りにはこの橋を渡らない習わしが残るとか。晴明の死によって、永久に出られなくなった式神が、まだ橋の下に住んでいるのかもしれませんね。陰陽道の別の神 ・泰山府君もまた、謡曲に取り上げられていますが、ご存知ですか?ちなみに観世流ではありません。 晴明神社では、今でも色々な事を陰陽道に則って占ってくれるそうです。私が尋ねた時も、平日の昼間という時間にも関わらず、7人の方が順番を待っていました。 |