邯 鄲
(かんたん)

 司馬遼太郎だったと思いますが、「日本人にとって、古代(唐以前)中国は、ある種の郷愁を感じさせるのだ」という意味の文を書いておられるのを拝読したことがあります。

 遣唐使廃止まで、そしてその後も折にふれ、日本はありとあらゆるものを中国から学んで来ました。長い年月が経つうちに、それらの文化-文学・哲学・生活様式・政治規範などは、日本文化に取り込まれ、我々の文化の血となり肉となって、幾世代を経た今では、ごく自然な共感を持って杜甫の詩を吟じたり、当たり前のように漢字で意思表現をするまでになりました。
 しかし、本場の中国では、日本がせっせと吸収したもののうち幾つもが、その後の動乱を生き長らえることなく絶えたり、衰えたりしてしまいました。そのせいで、多くの日本人が、現代の中国において中国らしい場所を訪れると紛れもなく異国を感じるのに、長安の都や漢詩には昔懐かしさを覚えると言う、世界史上稀に見るクロスカルチャーを起しているのです。

 能も現行曲の中、約一割以上のものが中国に題材を採っています。そしてその中に『邯鄲』のような名曲が存在し、それは紛れもなく日本の、能の粋を集めたものであると言うのも、また興味深いことです。

 さて、日本で「邯鄲」と言えば、たいていの人が、「邯鄲の夢枕の邯鄲ね」と分かりますね。このように邯鄲の町を有名にしたのは、どうも能の功績のようです。
 というのも、中国の人には何故「邯鄲」の町が日本人にとって有名なのか、どうにも分かりかねるようなのです。そしてまた、現代の邯鄲の町ではそう思われるのも無理のないことかもしれません。
 「邯鄲」は、広州から北京へと続く鉄道の幹線上にかろうじて位置するとはいえ、北京や上海や西安のような売り物のない、単なる地方都市に過ぎなくなっているのですから…

 そんな邯鄲の町ですが、その起源は大変古く歴史上に姿を現すのは春秋末期にかけてのことです。この時代は諸侯の上にある周王室の力が弱くなり、血縁関係によって結ばれた、周王を頂点に抱く諸侯との緩やかな連合体、という古代統一中国の形が崩れ、長い戦乱期の丁度中間です。
 周は洛陽に都を置き、
公・候・伯・子・男の五段階に爵位を分け、位を与えた血縁者をそれぞれ大きな邑(都市国家)に派遣して国を治めました。周王と親戚である諸侯とは、祖先の祭祀などを通して結束を確かめ合いましたが、この儀礼を記した法が周法と呼ばれるものです。
 分家である諸侯は、本家の周王室を「宗家」と呼んで敬いました。どこかで耳にした呼称ですね。そう、現在の日本で、例えば観世流のお家元やその一家を「宗家」と呼び慣していますが、これがその語源なのです。周王朝の統治の仕方は、実は日本の、伝統芸能の家々の在り方に大変良く似ているのです。

 さて、このように血縁によって結びついていた周王朝と諸侯の連合ですが、時が経つに連れてお互いの血縁が薄くなってきます。この時代の不文律「同じ姓の家と婚姻してはならない」が、益々この傾向に拍車をかけます。
 例えば周王室は「姫(き)姓」の家です。ここから分かれた晋・魯・衛・蔡・宋は全て同じ姫姓を名乗っていますが、これらの家同士の結婚は許されません。血が薄くなれば本家だと言って敬う気持ちも薄くなるのは当然のこと。
 こうして連合は崩れ戦乱の世が始まります。これが春秋時代です。西暦で言えば紀元前七世紀、日本はまだまだ縄文時代です。

 春秋時代は東に移った周を頭に抱き、五国‐斉・晋・楚・呉・越が覇を競っています。時代が下るに連れて戦乱は激しく広がり、紀元前四七三年、まず呉が越に滅ぼされます。
 余談になりますが、越王は呉に破れた屈辱を忘れてはならじと、薪を並べた上に寝み、肝を嘗めては苦さを味わったのですが、これが「臥薪嘗胆」。紀元前五世紀に中国で生まれた言葉が、二十一世紀に隣国の日本で当たり前に使われている…日本と中国の文化の面白さですね。

 さて紀元前四五三年、晋の国は六卿のうち、韓・魏・趙の三氏に国を分割されます。また降って四〇三年、今度はその三氏が諸侯として独立します。ここに春秋時代は終り、戦国時代が始まるのですが、三国のうちの一つ、趙が都に定めたのが邯鄲の邑でした。

 実は去る六月末に、四日間の日程で中国に行って参りました。余談ですがこの旅行、貯めたは良いが期限が切れそうになった、日本エアシステムのマイレージを使ってのものでした。ろくに休みも取らず、せっせと日本中を仕事して回っている旦那様に感謝です。

 さて、邯鄲に行きたいとは思ったものの、これはなかなか簡単なことではありませんでした。

 中国を旅行したいと思ったら、まずは中国旅行社に問い合わせることです。ところがオフィスに行って、「邯鄲に行きたい」と言うと、中国人スタッフの方々は一様にぽかんとした表情を浮かべるのです。

 「どうしてまたそんな(何にもない)所に?」こう思っているだろうことが、良く分かりました。

 ともかく調べてもらった所、邯鄲の町の周辺には飛行場がないのです。従ってこの町に行くにはどこか飛行場のある大きな町から汽車に乗るしか手段がないように思われました。
 スケジュールの関係上西安に着くことになっていましたので、そこから飛行機を乗り継ぎ、まずは河南省の省都・鄭州へ。そこからは汽車に乗ることに決めて日本を出発しました。

 中国国内を個人で自由に旅行するにはまだまだ不便なことが多いのですが、その中でも一番大きいのは、汽車の切符が取り難いということです。日本からの予約はもちろんできませんし、また三日前にならないと切符が買えないのです。
 最近では大分事情も変わったようですが、数年前に旅行した時は駅での切符売り場も、外国人は別の窓口で値段も別でした。言葉もほとんど通じません。筆談あるのみです。それも煩わしい一因ではありますが、とにかく中国の駅はすごい人なのです。
 農村人口が皆都市を目指した時代は過ぎたと言っても、汽車が着く度に吐き出される人の数は大変なものです。この人達を掻き分けて列に並び、果たしてこちらの希望は伝わっているのだろうかと不安に思いながら切符を買うと言うのは、よほどの珍し物好きでなければお勧めできないことですよね。

 でもどうぞ御安心下さい。ちょっと大きなホテルなら必ず旅行部があり、ほんの数百円のコミッションで宿泊客の切符の予約や引取りの代行をしてくれるのです。そして大抵の場合、英語(或いは日本語)のできるスタッフが常駐しているので、やっとの思いで手に入れた切符の行き先が違うと言うこともありません。

 かくいう私も、鄭州の紅珊瑚酒店にチェックインを済ませるやいなや旅行部に直行しました。ところが、以前上海や西安ではすんなりと買えた切符がなかなか手に入らないではありませんか。
 どうしてだろうと訝る私に、スタッフの男性が説明してくれた所によると…中国では出発駅と終着駅に切符の割り当てが多く、途中の駅での乗り降りは、大変切符が手に入り難いのだそうです。
 途中と言っても、そこは広い中国のことですから大変長いのです。鄭州‐邯鄲間(二四〇?`)を例に取ると、これは広州‐北京の路線にあって、直線距離でも二千数百キロもあるのです。

 せっかくここまで来たのに諦めるのか…とがっくりした私に、「バスはどうでしょう?」との提案。「何時間かかるんですか?」と聞くと、「No more than 3 hours」という答えが返って来ました。
 大目に見て四時間かかっても、それなら一日で往復できると思い、バスの切符を取ることに決定です。料金は片道四六元。日本円でおよそ七百円でした。

 翌朝は早起きをし、七時のバスで一路邯鄲へ。河南省・鄭州辺は黄河が肥沃な土を運び、中国でも最も早くから開けた地域です。鄭州を出るとすぐに黄河を渡るのですが、その川幅の広いことには本当に驚きました。
 海からずっと遠い内陸の中流域なのに、端から端まで車で数分かかるのです。湖を渡っているのではないかと錯覚を起しかけた頃、バスは黄河を越えました。

 車窓からの景色も見飽きず、と言いたい所なのですが、「No more than 3 hours」だったはずのバスが邯鄲に着いたのは午後の一時でした…六時間、つまり倍かかった訳です。最終のバスは五時、つまり町にいられるのは四時間しかないわけで、駆け足の邯鄲見学になってしまいました。

 しかし良くしたもので、邯鄲が、皆が揃って「どうしてそんな所へ?」と疑問に思ったほど見るべき所の少ない町だったのが幸いしました。中国語が分かるなり、事前に事情通の人の話を聞ければもう少し違ったかもしれないのですが…

 町にただ一つの博物館は閉館。趙園という名の公園も、芝生は広くて気持ち良かったのですが、特に何があるわけでもありません。
 筆談でタクシーの運転手さん(女性でした)に頼んで連れて行ってもらった、春秋時代の邯鄲の街の跡も、今では夏草の生い茂る土手と化し、なぜか農家が1軒あるのみです。

 こういう時は歩くに限ると、炎天下をものともせず歩いて見たのですが、どこを歩いても夏の昼下がりののどかな風景です。日本の田舎も画一化し、どこに行っても同じような地方都市の顔になっていると色々な人が嘆いていますが、中国でもことは同じようです。
 なんとなく日本の地方都市にいるような気になって、学生橋の辺りをぶらぶらと歩いていると、横の壁に「旅館」の文字を発見しました。崩れた塀や散乱した瓦礫、ゴミ(これはあまり日本では見かけませんが)にちょっと気後れしたものの、路地の奥を覗いてみると赤いランタンの下がった時代物の旅館が見えました。
 盧生が泊まった宿を見つけたようで嬉しく、カメラを向けると、どこからともなく子供たちが走りぬけて行きました。


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