小鍛冶
(こかじ)

 『箙』では、弓矢について色々と調べましたので、今回『小鍛冶』では、刀剣について調べようと思い立ちました。まず浮かんだ疑問は、今でも「刀鍛冶」はいるのだろうか、というものです。
 そこで探してみると、この現代にも「刀鍛冶」と呼ばれる、いわゆる日本刀を製作している方は意外に多くいらっしゃることが分りました。そしてその中のお一人である、真鍋純平さんと仰る刀鍛冶さんが、この度のうのう便りの取材に、快く応じてくださいました。

 真鍋さんの鍛冶場は、兵庫県多可郡中町にあります。お邪魔すると、まずはご自分の鍛えた太刀を見せて下さり、刀の見方を教えて下さいました。

 右側が真鍋さんの打った刀で、南北朝時代の太刀を写したもの、左側は、これも南北朝期の太刀の写しですが、江戸時代に写したものの、そのまた写しだそうです。
 時代劇に見る二本差しよりもずっと大ぶりで、写真では分りませんが、刃も肉厚な感じです。この後、お客様から預かっている江戸時代の日本刀も見せていただきましたが、前に見た二本の太刀に較べると、何やら可愛らしいように感じました。
 この二本の太刀は、白木の鞘に収められているのが分りますが、これは「休め鞘」と言って、刀剣をしまっておく時に収めるものだそうです。といっても、一振りの刀にあわせて一つずつ作られており、地味であっても職人の技が光るものです。休め鞘は直径50cmはある朴の木の、幹の真直ぐな部分から、二本分しか取れないそうです。

 特に右側の太刀の鞘は、人間国宝といっても良い職人さんが作ったもので、素人の私が見てもぴたりと収まるその様はまるで魔法のようでした。
 テレビで見られる、黒い漆塗りの鞘や、立派にこしらえた柄などは、全て外出用ですが、これらも一振りに一つずつ意匠を凝らして作るものです。
 侍というのは、低い身分の者であっても、常に何振りかの刀を持っていて、着物と同じように、フォーマルな物から遊び着のようなものまで、刀の拵えには色々とあった様です。

 現在刀というのは、慶長年間を境に古刀と新刀とに分類されています。が、その美しさ、完成度を見るに、鎌倉期の刀が群を抜いて貴重なものとされています。
 真鍋さんは、室町以前の古刀を主に研究されていますが、まだまだわからない部分が多いそうです。また太刀と刀の違いですが、使用年代や長さなどもありますが、一番の違いは身に着け方だといいます。

 太刀は平安時代末期から室町初期までに、腰に佩いて用いました。下げ緒と言うひもで吊るすのですが、この為刃を下側に向けています。

 刀は室町中期から江戸末期まで使用され、太刀よりやや短めです。太刀とは逆に腰に刺して用いる為、刃を上に向けています。

 つまり美術館などで刀掛けに飾ってある場合、刃が下を向いているのが太刀、刃が上を向いているのが刀だと思って間違いありません。

 着け方の違いは、抜き方の違いに現れるのが面白い所です。ちょっと実験をして見ましたので、御覧下さい。

こちらが太刀の抜き方です。これはそのまま、能の型でもあります。





 対するこちらは、江戸時代の刀の抜き方。時代劇などに出てくるお侍は、ほとんどこの抜き方ですね。





 お分りになりますでしょうか。手首が違いますね。太刀では手首を伸ばして柄を握り、刀では手首を曲げて柄を握っています。この違いは「早く抜く」ということに現れるそうです。つまり太刀では、抜いた後手首を返さないと刃が敵の方を向かないのです。
 馬上戦が主だった中世の合戦では、弓矢が主要な武器であり、太刀は馬から降りた時に用いる物でしたからこれでも良かったのですが、白兵戦が主体になった戦国期には、抜いてすぐに刃を交えられないのは都合が悪かったのでしょう。
 刀というものが道具であり、時代に合うよう変化していることの証明です。さて、右下の写真は能の型でもあります。つまり中世に確立した能では、刀を抜くといえば太刀のことだったのですね。良く考えれば当たり前のことですが、これはなるほど発見でした。

 さてこの後実際に日本刀の鑑賞のしかたを伝授頂きました。

 まず一番最初の写真のように置いた形で、全体の姿形を見ます。「そり」の具合や、「切先」の形を見るのです。次に手に持って光にかざして、日本刀に独特な、刃紋を眺めます。
 刃紋は、刃を丈夫にする為の焼入れの技術によって生じます。「焼刃土」という粘土を荒仕上げした刀身に塗り、刃の部分だけ薄く落すことで出来るのですが、その落し方で刃紋の形が決まります。これを「土取」と言い、土が乾いた所で炉に入れ、その後は焼加減を見て水槽に入れます。これが焼入れと呼ばれて、最も技術を要する工程だそうです。
 刃紋は刀工の違いや時代の流行などにも影響されるそうです。最後にまた平に置いて、地に現れている沸(にえ)や匂(におい)を鑑賞します。

 実際の刀を見せて頂いた後は、いよいよ鍛冶場にご案内頂きました。

 写真の枡形の炉は「火床‐ほど」と言って、ここに松炭を入れて火を熾します。なぜ松炭かというと、これが最も火力が強く、灰が軽くてほとんど残らないと言う理由からだそうです。
 鍛冶場の床は土間であり、鍛冶はこの炉前に座るのですが、槌を振う台の前の定位置には片足が入る穴が開いていました。これは体を安定させ、充分な力が出せるように作られたものでしょう。嬉しいことに、真鍋さんは混ぜ合わせた材料を鍛える工程を見せてくれました。

 日本刀のキャッチフレーズは、「折れず、曲がらず、良く切れる」だそうですが、この一見矛盾にあふれた性格も、芯になる折れない柔らかい芯鉄、粘りのある刃鉄、強靭な皮鉄などの性質の違う地鉄を組み合わせることによって実現できるそうです。
 つまり日本刀は、同じ材質でできた一本の鉄の棒を叩いて薄く伸ばしたのではなく、何種類かの性質の違う鉄を貼り合わせ、それを打って鍛え、刀の形に仕上げたものなのです。ですから刀の断面図を見るとその構造が分ります。

 左の写真は「てこ棒」と呼ばれるものです。上部の台の上に混ぜ合わせた材料をくっつけて行きます。材料が細く延びて刀状になったらてこ棒から外して、全体に藁灰をまぶして火に入れます。

そしてまた藁灰をつけて、鍛えていくのです。右は鍛え終わり、次の工程に移る途中の物です。

 話が前後してしまいましたが、刀を作る工程と言うものについて少し御説明しましょう。真鍋さんによると、仕事は大まかに分けて、製鉄(たたら)、卸金、鍛錬、造り込み、素延べ、火造り、生仕上げ、土置、焼入れ、仕上げ、鍛冶押、茎仕立て、銘切りの段階に分けられるそうです。
 この内我々が鍛冶屋さんとイメージする、槌を握ってトンテンカンとやっているのは、造り込みから仕上げまで(土置を除く)だそうです。今回真鍋さんは、造り込みという作業を実際にやって見せて下さいました。

 左の2枚の写真のうち、左側は、熱した鉄に藁灰をまぶしている所です。こうすることによって槌が直接鉄に当るのを防ぐクッションの役割の他、炉に入れた時に鉄が充分に沸くそうです。
 確かに藁灰をつけて鉄を炉に入れると、すごい勢いで炎が立ち上り、その効果を窺い知ることが出来ました。(右側の写真を御覧下さい)

 そうやって充分鉄を熱する(沸かすと専門用語では言う)と、根元の方から鍛え始めます。相槌は今年二年目の内弟子さんが勤めます。相槌の方が大きいというのも今回初めて知りました。師匠と弟子は互いに掛声をかけながら下から上へと繰り返し鉄を鍛えていきます。『小鍛冶』のように「ちょうちょう」という掛声は聞けませんでしたが…




  まだまだ新米のこの内弟子さんは、途中何度か失敗をしてしまいました。多分刀の中心を打つべきところを外してしまったのでしょうが、それまでのリズミカルな「キン・キン」という音が、「ガッコン」という濁った音になるのですぐわかります。
 師匠が後で苦笑交じりに仰いましたが、それをやると刀が駄目になってしまう場合が多いのだそうですが、また反面失敗をしないといつまでも槌が使えるようにならないので、相槌が勤まらないのだそうです。左の写真は「現代の相槌」ですが、熟練した相槌との間に生まれる刀には、やはりこれでは及ばないそうで、『小鍛冶』の宗近が良い相槌を探したことも納得がいきます。

 日本中で鍛冶という仕事をしている人口は三百人ほど、そして刀鍛冶と呼ばれるのは百人足らずであり、中でも刀だけを打って生活しているのはその三分の一程度だそうです。
 鍛冶という職業も能楽師と同じく内弟子奉公があり、生半なことではなることが出来ないものです。「良い相槌が見つかるのは現代でも奇跡ですよ」と真鍋さんは笑って仰いました。
 また「小鍛冶」というのは、たたらを持ち、製鉄作業もする鍛冶に対し、打ちもの専門の鍛冶屋さんのことを言うのだそうです。真鍋さんは今年の秋に神戸のデパートで個展を開催予定だそうです。御都合のつく方はこれを機会に是非日本刀の美に触れて頂きたいと思います。
 真鍋さんの個展が御無理な方、都内には刀剣博物館や日本刀装具美術館など、日本刀の専門的な美術館があり、いつでも見る事ができます。

 さて、純平鍛治場を後にし、今度は実在の人物でもあった『小鍛冶』、三条の宗近の旧跡を辿りに、京都にやって参りました。
 三条粟田口というのは、真鍋さんによると、刀鍛冶のエリート集団が集まっていた所だったそうです。まずは三条通を粟田神社からもう少し山科方面に向って、沸光寺にやって参りました。宗近はこの三条粟田口に住み、名工として知られていました。
 現存する国宝の太刀は、「三日月宗近」は室町時代には既に天下五剣の一つに数えられ、また祇園祭りの長刀鉾も、宗近が鍛え、娘の疫病回復を感謝して祗園社に奉納したものだと言われています。

 沸光寺を後にし、粟田神社へと向います。粟田神社内には宗近の仕事場であった場所に建てられた、鍛冶神社があります。「小狐丸」もここで鍛えられたのでしょうか。
 三条通のちょうど反対側には相槌稲荷。まるで伏見のお稲荷さんのミニチュアのような参道を持つ、可愛らしいお稲荷さんは、無事に刀を打てた感謝に、宗近が勧請したものです。中には狐のお人形が沢山飾られていました。

 『小鍛冶』を廻る旅の最後は、知恩院です。山門脇には「小鍛冶井」があり、宗近が剣を鍛えるのに使ったと言われています。

 最後は駆け足の『小鍛冶』紀行となりましたが、如何でしたか。『小鍛冶』にまつわる舞台にはこの他にも伏見の稲荷大社など、見るところがたくさんあります。また「三日月宗近」ですが、現在は東京の国立博物館に所蔵されています。

 刀だけをたくさんみたいと御希望の方は、幡ヶ谷の刀剣美術館に行って見るのも手かもしれませんね。
 春うらら、芸術を秋にばかり独占させてはいけません。名所旧跡では京都に劣る東京には、その代わり、どんなものにも触れるチャンスが多いのです。


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