鞍馬天狗
(くらまてんぐ)

 ご承知の通り、これは源義経の幼少の頃、つまり牛若丸のお話です。平治の乱で平清盛に負けた源義朝には、常盤御前と言う愛妾がいて、二人の間には今若・乙若・牛若という三人の子供がいたのは有名な話です。
 負けた側は女・子供にいたるまで残党狩りをされるのが当然の時代、まだ乳飲み子の牛若を含めて三人もの子連れでは、常盤も、当然すぐに捕まってしまいます。捕らえたのは、平宗清。宗清は、常盤の美しさに瞠目し、操を捨てる代わりに子供を救ってもらうよう清盛に懇願するように言います。こうして、三兄弟は母が仇の妾となった代わりに命を永らえ、それぞれ別々の寺に送られることとなったのです。

 牛若はこうして鞍馬寺に送られたのですが、いったいどうして鞍馬だったのでしょうか。おそらく、彼が最も幼かったことから、あまり遠いところ、例えば頼朝のような遠方までは送るまでもないと思われたのでしょう。
 しかし鞍馬はまた、『枕草子』にも「近くて遠いもの」と評されたように、子供の足で、そうおいそれと都に帰って来られるところでもなかったのです。


 では、都に近い他の山、比叡山などはどうだったのでしょうか。歴史に詳しい方にはもうご承知でしょうが、平家と比叡山や南都(奈良)の寺々の間は非常に良い時でも武装中立くらいのものでした。その原因は様々なのでここでは省略しますが、そのような反平家の温床に、宿敵義朝の御曹司など送り込んで、反乱の旗頭に育てるなどという危険は、清盛でなくとも犯したくないものであったのは想像に易いことです。

 さらに清盛は、妾に迎えたばかりの常盤をあまり悲しませたくなかったのかもしれません。もとは敵の愛妾である常盤が今は自分一人だけを頼りとし、その望みをかなえてやる…

 うがった見方をすれば、これ以上勝利を確認できる行為は他にないかもしれません。清盛という人は案外人情に脆いところがあり、後年それが彼の命取りになるのですが、常盤の願いを聞き入れた時彼の心にあったのは、そんな単純な同情の思いだけではなかったような気がします。

 最後にもう一つ、『鞍馬天狗』の中にも、「只今の稚児達は、平家の一門にて…」の個所がありますが、鞍馬は平家との関係が深く、同門出身の僧や行儀見習の子供が預けられるところだったのでしょう。

 義経が、打倒平家の誓いも新たに大天狗から兵法を授かった鞍馬寺は、現在も深山幽谷とした趣を濃く残しています。京都市中からは、叡山電鉄で約三十分で鞍馬口に着きます。ここから鞍馬寺まで「近くて遠きもの、鞍馬の九十九折」と書かれた、急な坂道を登ること一時間。やっと本堂に到着します。
 足に自信のない方には、ケーブルカーもありますが、自分の足で試してみると義経の腕白ぶりが身にしみてわかるような気がします。

 本堂の奥、霊宝殿の先から奥の院までの間は「木の根道」と呼ばれる、昼なお暗い原生林を抜けて行きます。義経、いや牛若丸はここで修行をしたと言い伝えられ、途中には遮那王(義経の稚児名)を祀った義経堂もあります。
 この道は、その名の通り杉や樫の大木の太い根っこが、土の上をうねうねと這い回り、ここで修行していれば、橋の欄干をひらひらと跳び渡ることなど、いとも簡単に出来るようになりそうです。

 奥の院を過ぎて、道は急な下りにかかり、貴船川を越えればもう仁王門です。ここを過ぎれば目の前はもう、『鉄輪』の舞台、貴船神社となります。この、怖い話の地のことは、またの機会に…

 鞍馬寺、門前茶屋の多門堂には、牛若餅と言う名のお菓子があります。栃の実で作った餅に餡をつめた、いかにも鞍馬の山里らしいお菓子ではありますが、『鞍馬天狗』の僧正が花見に持って行くには、何かもっと華やかなお菓子のほうが似合いそうです。例えば、祗園・南座横の菓子舗「祗園饅頭」の花見団子とか…


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