和布刈
(めかり)

 九州でも最も本州よりの門司、それも関門海峡が最も狭くなった場所に、速門社(はやとのみや)、別名早鞆明神又は和布刈神社があります。
 海に面したというと、他にも住吉大社(今は違いますが…)や厳島神社などが挙げられますが、ここでは面したと言うよりも、海辺の断崖にへばりついたと言った方が良いようなお社のありかたです。

 小さな神社ですが、その由緒は大変古く、社記によると、第代仲哀天皇の九年、韓国からの凱旋の途中に、神功皇后が戦の勝利を神に感謝して、自ら神主となって創建したものだと伝えられています。
 本州と九州を結ぶ交通の要所であり、九州で最も本州に近い所に位置するこの神社は、ために西門鎮護の神として、歴代の将軍、領主の崇敬を集めてきました。
 御祭神は第1座に比売大神(アマテラス)、第二座に日子穂々出見命(ホホデミノミコト‐山幸彦)、第三座に鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト‐山幸彦と豊玉姫の間に生まれた子供で、神武天皇の父)、第四座に豊玉比売命(トヨタマヒメ‐龍神の娘で山幸彦の妻)、第五座に安曇磯良命の、五柱の神を配しています。

 これらの神様の関係は、第一座の天照の、二番目のホホデミは孫に当り、その子供と妻が第三と第四座の神となります。第五座の磯良だけが少々関係が遠く、開祖の神功皇后に仕えていた志賀島の海士人です。
 ただこの安曇磯良は、豊玉姫の子供として民間には伝えられることもあり、住吉大社を始めとする、全国の海に関係のある神社に良く祭られている神なのです。
 またホホデミと豊玉姫の間に生まれたウガヤフキアエズは、豊玉姫の妹、つまり叔母の玉依姫と結婚し、その間に生まれたのがカムヤマトイワレビコ、又の名を神武天皇と言い、初代天皇とされており、神功皇后の夫であった仲哀天皇は、この系図の第代めの天皇となります。

 和布刈神社の名を広く世間に知らせたものは、何と言っても、旧暦の大晦日に行われる、「和布刈神事」と呼ばれる、お宮の別名の由来ともなったユニークな儀式に他ありません。
 その儀式とは、読んで字の如く、お社の前の海に入り、鎌で和布を刈ることなのです。刈られた和布は、その年初めて神に捧げられる、神饌とされます。和布刈神社で刈られた和布は朝廷にも献じられ、最も古い記録としては和銅三年、元明天皇の時代のものがあります。

 しかし朝貢の風習は平安時代に廃れ、その後は神社の御祭神と、その時の領主のみに献上されるようになりました。
 古伝によりますと、この神事が伝わった背景には、神功皇后が新羅を攻めるにあたって従者の安曇磯良を海中に遣わし、潮涸珠・潮満珠の法を授かり、めでたく新羅侵略を成功に導いた、その遺風によるものであると書かれています。
 そして、昔ホホデミが海中の龍宮城を訪れ、海龍王の娘の豊玉姫を妻に迎え、また潮満・潮干の宝珠を授かり、それを子孫に伝え、万世途絶えることなき繁栄を見たという慶事を記念して、海中の和布を新年に神前に供え、また朝廷に捧げるのだと書かれています。
  古伝ではまた和布のことを「
陽気初發し、万物萌え出るの名なり。その草たるや淡緑柔軟にして、陽気発生の姿あり。培養を須いずして自然に繁茂す…」と、まだ寒い季節に、他のものに先駆けて青々と萌え出で、また肥料をやらなくとも繁茂する非常に縁起の良いものであるとしています。
 そればかりでなく和布は、海神の依り代ともされていますので、航海の安全や豊漁の祈願には最もふさわしい御供物だと言えましょう。

 それでは、和布刈の神事を順を追ってご紹介して参りましょう。因みにこの神事は全て旧暦で行われます。まず第一の準備として、冬至の日、和布繁茂の記念祭が行われます。
 旧暦十二月一日、境内には仮棚が設けられ、注連縄を引き、雌雄の新しい竹を採取し、それを割って二束の松明を作り、棚の上にて乾かします。十二月二十五日、神事を執り行う神官はみな、この日より社に篭って、別火潔斎に入ります。
 大晦日、午前八時ごろから神殿の装飾が始まります。夜になると社務所の前の広場には、予て用意のほだ木が累々と積み重ねられたものに点火し、大きな焚火が焚かれます。この時、社内では神饌の調理が始まります。神饌は、古式によると次の七台です。

 1. 和 布

 1. 歯 固 (大豆・干鰯・大根)

 1. 福 噌 (小豆味噌と大根を以って造る)

 1. 力の餅

 1. 鏡の餅

 1. 神 酒

 1. 海 魚

 このうち、最初の和布は後の神事の際に海中から取られたものを使うので、後で整えられますが、その他のものは全てこの時間に作られます。
 除夜の鐘が鳴り、午前1時ごろから、神楽が奏せられます。また神輿渡御し、午前3時、昔の時間で八ッ半、干潮を待っていよいよ神事が行われます。

 神官は烏帽子、狩衣、白足袋、草鞋に衣服を整え、剣を腰に帯び、鎌を桶を携えて本殿前の石段を降り、海に入ります。
 供の神官は、十二月一日に作り、良く乾かしておいた竹の大松明に火を点し、これを掲げて後に続きます。身濯祓いをした後、神官らは冷たい海で分ほど松明で照らされつつ和布を刈り取ります。
 刈り取った和布は持参の桶に入れ、桶が一杯になると引き上げます。

 本殿に戻った神官は、熨斗あるいは鰹節を添えた御酒一対を正殿に献じます。左右の相殿にも、この酒を御酒錫に盛り足します。
 次に和布を1本か2本、小さいものであれば3本、お供え皿又はかわらけに盛り、五柱の祭神の前にそれぞれ供えます。余った和布は桶ごと脇に供えておきます。
 そして、歯固の御供物や力餅、鏡餅などの先ほど用意した神饌全てを供えて、祭典を執り行います。祭典は明方頃まで続きます。
 古は祭典を終えた神職が、早朝国主の館に上って、和布を献上したところで、和布刈の神事が終了したそうです。

 さて、和布刈の神事として有名なこの祭儀ですが、実は行っているのはこの和布刈神社(早鞆宮)だけではなく、対岸の下関市の住吉神社も、やはり大晦日に同じ神事を行っているのだそうです。
 今回和布刈神社を訪ねるため旅の手配をしていたところ、主人が「本当の和布刈神社は、向側にあるらしいよ」と言いました。と言いますのも、謡の中でワキの神官が「これは長門の国・早鞆の明神に仕え申す神職の者なり」と謡うのです。
 実際には、早鞆の宮、和布刈神社は、豊前、つまり九州側の門司にあるものに相違ないのですが、早鞆の宮が朝廷に和布を献上していた頃、献上品の和布が、住吉大社を経て送られていたとも言われていますし、また下関市赤間区の住吉神社も創建が神功皇后の宮であると伝わるなど、二社が近い関係にあることは間違いないようです。
 住吉神社の和布刈神事の縁起は、和布刈神社のものとは多少違い、神功皇后が穴門山田邑(現在の下関市一の宮住吉町)に住吉神社を創建された際、神主・踐立(ほむたち)に命じて旧正月の元日の未明、壇之浦の和布を刈り採らせ、神前にお供えされたという故事に乗っ取ると伝えます。
 が、このニ社の近しさを否定するものではなく、それは祭神を見てもわかります。和布刈神社の五祭神のうち、キーパーソンであるのはホホデミノミコト(山幸)でしょう。
 これに対して住吉の神は、筒之男神(
ツツノヲノカミ)といい、航海や海の守り神ですが、ツツノヲノカミと関係が深いのが、ホホデミを竜宮城に案内した、塩土老翁神‐シオツチノオキナノカミです。
 つまり和布刈神社と住吉神社は、同一人物が、関係の深い神様のお社を、対岸にそれぞれ作ったものなのです。
 これは少々飛躍した推測なのですが、ある時期にはこのニ社の神官は合同で和布刈神事を行っていたのかもしれません。と言いますのも、室町時代にこの長門と豊前の両地を所有していた大内氏の年中行事儀式に、次のようにあるのです。

正月五日の日に、諸人に食を給わり、御能をぞさせらるる。脇能は毎年和布刈といえる能なり。めかりと申し侍るは、豊前の国門司が関。早鞆の明神の海底へ、長門一宮住吉大明神の社人と、はや鞆の社官と、犀の鉾を手に持ち、波間を分て入ければ。荒波左右へ引退て、干潟の如くなりぬれば、其の時彼の社人ども、海底の和布を刈り取り…」

 つまり、毎年お正月五日、皆に食事を振舞って能を催すのだが、脇能はいつもご当地話の『和布刈』を上演する。このめかりというのは、下関の住吉神社、門司の早鞆明神の、各々の社人が波間を分けて海に入ると、海は荒波が左右に引き干潟のようになる。其の時彼らは海中の和布を刈り取り…と言っています。
 私一人の想像にすぎませんが、古、関門海峡の両側を同じ領主が所有している時、二つの神社は互いに協力して和布刈神事を行い、違う領主で隔てられた時は独自に行っていたのではないでしょうか。
 ホホデミノミコト所縁の、満珠島・干珠島が、門司と下関の間に浮んでいます。龍宮の神が、婿であるホホデミに娘と共にくだされた二つの宝珠。神功皇后の、新羅遠征の成功の鍵を握った二つの宝珠。この宝は今、瀬戸内海に浮ぶ、緑の濃い小島に静かに眠っています。

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