三井寺
(みいでら)

 謡曲『三井寺』は『百万』や『桜川』等と同じく、母子の再会が題材となっています。けれども『三井寺』の主人公は、漫然と捜し歩いてこの寺までやって来た訳ではなく、きちんとお告げを授かってやって来ました。
ではそれはどこで頂いたものかといいますと、京都の清水寺の観音様が夢に現れて三井寺に行くように言われたと、謡の最初の部分で明かされます。

 という訳で、今回は清水寺から三井寺へと舞台を移りつつお話していきたいと存じます。

 清水寺は、いまさら何をか言わんや、というくらい有名な京都の観光名所です。修学旅行で京都に行けば必ず訪れる場所ですし、また外国人向けのガイドブックにも「何はさておき訪れるべし」と薦められています。しかし今回清水寺のことをきちんと調べますと、案外この寺のことを良く知らなかったな、と実感致しました。

 まずは正式名称から。「音羽山清水寺」と言います。清水の名称は、音羽の滝の清泉にちなんだものだそうです。
 開創は大変古く、奈良時代の末七七八年(宝亀九年)と言いますから、開山して既に千二百年余が経っているのです。
 大和・子島寺の延鎮上人という僧が霊夢を受け、音羽の滝を探し当て、そこに居を構えていた行叡居士から一本の霊木を授かりました。延鎮上人はこれを使って観音像を彫り上げ、滝上の草庵にお祀りしたのが、寺の起こりだそうです。
 まもなく、坂ノ上田村麻呂とその妻が滝の清水と上人の教えに導かれ、深く観音に帰依します。田村麻呂は本堂を寄進し、ご本尊十一面千手観音を安置し、これが現在まで続く清水寺の盛栄の基礎となったわけです。
 この部分は能『田村』の中で詳しく語られていますので、どうぞ『田村』をご覧の際はお耳を澄ませて聞いてください。清水の観音様は、古くから大変霊験あらたかと評判で、謡曲『三井寺』の主人公も、その力にすがって子供の行方を探したのでしょう。

 本堂は、あの有名な「清水の舞台」を南の正面としています。現在では観光客や参拝客の写真撮影の舞台と化していますが、ここは舞楽などを奏する正真正銘の舞台で、東西両端に設けられた翼廊は本来「楽舎」であるそうです。
 ここからの景色は、春は桜、夏は翠緑、錦秋そして雪景色と四季を通じて風雅に富み、能『熊野』でも花見の宴を催しています。
 様々なことに霊験のある寺ですが、中でも安産・子育ての信仰を集め、境内には子安観音を安置した子安の塔があり、また旧参道の三年坂は、もともと産寧坂であったとも言われています。
 「源氏物語」を始めとする古典にも数多く登場し、また能でも、先ほど挙げられた二曲の他に『盛久』の舞台としても有名です。

 が、清水の話ばかりしていると、なかなか三井寺にまでたどりつけませんので、この辺りで先に進みたいと存じます。

 長等山園城寺・三井寺(ながらさんおんじょうじみいでら)先ほどの清水寺が、坂ノ上田村麻呂個人によって大きくなり、庶民の信仰を集めた寺であるならば、こちらは天智・弘文・天武三帝の勅願寺であり、延暦寺・興福寺・東大寺と共に本朝四箇大寺の一つ、そして天台寺門宗の総本山として威勢を誇った寺です。

 草創は天武天皇十五年(六八六)と言いますから、今から千三百年以上も前のことです。大友皇子の子・大友村主与多王によって建立され、「園城寺」という名も、与多王が自ら荘園・城邑を献じて創建したことにちなんで、天武天皇より「園城」という勅額を賜ったことによるとされています。

 三井寺というのは通称で、これは境内に涌き出る霊泉が、天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことから「御井の寺」と呼ばれていたものを、この寺の中興の祖である、智証大師円珍が、この水で三部潅頂の法儀に用いたことからついたものだそうです。

 この三井寺、大変広いお寺です。京都から京阪電鉄を利用し、三井寺駅下車、そこから琵琶湖疎水に沿って10分ほど歩いた所にあります。
 重文の仁王門をくぐって境内に入ると、まずは国宝の金堂に向います。本尊は弥勒菩薩、そして鎮護国家の道場でもあります。現在の建物は、秀吉の遺志によって北の政所が再建したものです。

三井寺には鐘とそれにまつわる伝説が多くあり、また能『三井寺』の中にも、作り物で鐘が登場し、シテが鐘を撞くシーンが大きな見せ場になっています。
 先にも述べたように三井寺は大変広く、そして由来も多い大寺院ですので、紙面を限られた中で全てを紹介する事はほとんど不可能です。そこで、三井の鐘廻りとして、紹介していきたいと存じます。

まずは「三井の晩鐘」から。

 金堂に向かい合うように鐘楼があり、これが近江八景の一つとして有名な三井の晩鐘です。近江八景とは、中国の瀟湘八景に擬して定められた琵琶湖南部の八景勝のことを言い、「比良の暮雪、矢橋の帰帆、石山の秋月、瀬田の夕照、三井の晩鐘、堅田の落雁、粟津の青嵐、そして唐崎の夜雨」の八つです。
 またこの鐘は音色の良いことでも知られ、宇治の平等院、高雄の神護寺の鐘と共に日本三銘鐘の一つに数えられています。
 鐘の上部には「乳」と呼ばれる突起が合計で百八個あり、近世以降多く作られた、百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘としては、在銘最古の遺品でもあります。
 しかしこれは『三井寺』の中でシテが撞こうとする鐘ではありません。またなぜ狂女が鐘を撞こうとするなどもっての外だと止められるかと言いますと、もともと寺にある鐘は、時報の役を果たしていたのです。
 ですから好き勝手に撞かれては、鐘の音を聞いて時を知る生活が乱れてしまうのですね。今はそんな事もありませんから、この有名な「三井の晩鐘」も撞いてみることが出来ます。「ぼぉ〜ん」と一撞き三百円。思ったよりも柔らかい、軽い感じの音でした。

 私はちょうど、夕暮れ時に撞くことが出来ましたので、まだ余韻の残る境内に、ねぐらに帰る烏の鳴き声が聞え、正に近江八景を実感できました。

 金堂の反対側には先ほどの霊泉を守る「閼伽井屋」が建っています。この泉は間断無く沸き出で、この辺りを歩いていると、「ぼこっ、ぼこっ」と水の音が絶えず聞えて来て、最初は一体何の音だろうと不審に思うほどです。
 閼伽井屋の正面上部には、名匠・左甚五郎の彫った龍の彫刻があり、この龍が夜な夜な琵琶湖に出てきて暴れたので、甚五郎自ら龍の目に五寸釘を打ち込んだと言われています。

さぁ、金堂の奥を上がって行くと、二つ目の鐘「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれる鐘があります。
 この「弁慶鐘」は三井寺最古の鐘でもあり、奈良時代の作と伝わっています。能に出てくるのもこちらです。この鐘は田原(俵)藤太秀郷が、三上山のムカデを退治したお礼に竜宮からもらった鐘だと、伝説は伝えています。その後、三井寺と比叡山の争いの際に、武蔵坊弁慶によって奪われました。
 弁慶は鐘を山上に引き摺り上げて、撞いてみたのですが、「イノー、イノー(帰りたい)」と響くので、怒った弁慶に「そんなに三井寺に帰りたいか」と谷底に投げ捨てられてしまいました。この話を裏付けるかのように、鐘にはひびが入り、あちこち引き摺ったり転がした跡が残っています。

 またその他にもこんな話が伝わっています。ひびが入ったから、とこの鐘を釣らずに台の上にのせて置いたら、女人禁制のこの寺に、ある日一人の気の触れたお女中がやって来ました。
 そして「何と結構な鐘だろう、鐘には鏡の質も入っているというから、この鐘から鏡だけもらいたい」と思って、撫でまわしていると、ポコッと鏡だけが取れました。乳の中に一つ取れた所がその跡だそうです。それが天文十八年の盆の十五日で、それからはこの日に限って女の人がこの山に入り、懺悔してもらえるようになったというのです。

 さらにこの鐘は、寺に変事がある時には汗をかいたり、また撞いても鳴らないと伝えられています。言い伝えのように、本当に弁慶が一人でこの鐘を山上に引き摺り上げたとしたら、弁慶は大変な力持ちですね。

 さて次は、これまた伝説のある村雨橋を通り、山上の「童子因縁鐘」に向うこととしましょう。

 村雨橋の名の由来は、中興の祖である智証大師・円珍が丁度この橋の上に差しかかったとき、自分が長安で学んだ青龍寺が火事で焼けているのを感知し、早速真言を唱え、閼伽水を撒くと、橋の下から一条の雲が巻き起こって、西の方に飛び去りました。
 はたして後日、青龍寺より礼状が届いて、火事を消してもらったお礼が書かれていたところから、「ムラカリタツクモノハシ=村雨橋」と名付けられたそうです。

 橋を渡り、三重の塔、唐院を過ぎて、石段をあがると、観音堂の手前に三井寺第三の鐘のあった鐘楼があります。なぜ、あったと過去形かというと、戦争中この鐘は供出されてしまい、現在は鐘楼のみが残るだけだからです。
 この第三の鐘は、「童子因縁鐘」と呼ばれていました。この鐘にも伝説があり、昔この鐘を造る際に、三井寺の僧達が近江の町を托鉢に回りました。
 ある富裕な商家に勧進を願うとそこの主が出て来て、「家には金子など一文も無い。子供なら何人もいるから、それなら寄進しよう。」という返事だったので、僧はあきらめ、帰って来てしまいました。
 ところが鐘が出来あがって見ると、そこには三人の子供が遊ぶ姿が浮き上がり、同じ日にその商家の子供が行方不明になったというのでした。現在では古色蒼然たる鐘楼にはしっかりと鍵がかかり、哀しい伝説の鐘はなくなっています。

 鐘楼の向い側には三井寺観音堂、そして谷際には、謡曲『三井寺』に出てくる「観月舞台」があります。
 もちろん舞台の上には上がる事は出来ませんが、ここからの眺めは素晴らしく、琵琶湖疎水、大津の町並み、眼前には一面に琵琶湖が広がり、遥かに比良・鈴鹿の山並までが一望できます。
 謡曲『三井寺』は、中秋の名月の晩が舞台ですが、三井寺は桜の名所としても名高く、是非一度朧月夜に照らされた夜桜をここから拝見したいものだと思います。

 さて三井寺には、観月舞台とは別の、能に関係する物語があります。三井寺の子院の一つ、法明院には、明治期の著名な日本美術研究家であるアメリカ人、アーネスト・フランシスコ=フェノロサ(岡倉天心の師)が眠っています。
 彼は当時法明院住持であった、桜井敬徳阿闍梨の学徳に敬慕し、明治十八年には得度受戒を受け、法明院に滞在して仏教研究に励んだそうです。フェノロサはまた、能の謡曲を英訳したことでも知られています。
 しかし、彼はこの偉業を成し遂げずにこの世を去り、その仕事はエズラ・パウンドと言う詩人に引き継がれました。このパウンドと親交があったのが、19世紀始めのイギリスの大詩人、イエーツです。
 イエーツは、パウンドから能の話を聞き、その影響を受けて、『鷹の井戸』という劇を作りました。この劇は、その後日本にもやって来て、今度はそれを元に『鷹姫』という能が作られたのです。

 日本とその文化を深く愛したフェノロサはまた、能の愛好者でもありました。そのフェノロサが、能の舞台として知られる三井寺の中に眠っているのも、また一つ三井寺を訪れる楽しみではないでしょうか。

 三井寺を繁栄に導いた円珍も、唐に留学をした、当時で言えば国際人です。このような人の教えを今に伝える場所には、人種や国境を越えて美しいものを美しいと感じる人々を惹きつける、魅力にあふれているのでしょう。

 フェノロサがかけた橋は、今でもしっかりと根付いて、私達も頻繁に外国のお客様をお迎えしています。私達に託された課題は、いかにしてこの橋を維持し、もっと渡り易いものにするかということでしょう。


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