水無月祓
(みなづきばらい)

 「水無月祓‐みなづきのはらえ」は別名「夏越祓‐なごしのはらえ」と呼ばれる神事で、賀茂神社だけでなく、京都では他にも、北野天神や吉田神社、城南宮、建勳神社、地主神社、白峯神宮、貴船神社、野宮神社など様々な神社で行われます。
 東京でも有名なところでは、赤坂の比枝神社に大きな「茅の輪(ちのわ)」と呼ばれる茅で作った輪を境内に据えて、参拝者がその輪をくぐって祓いを済ませています。

 「夏越祓」は、神社にとっては大変大きな神事なのですが、ではこの催しは一体どこからどのように始まったものなのでしょうか。

 陰暦、つまり旧暦の六月=水無月の晦日を夏越と呼びます。太陽暦で暮らすことの長くなった今では、この昔風の月の名に違和感を覚えることも多いのですが、その筆頭が六月=水無月ではないでしょうか。
 現代の六月は入梅を迎える月ですが、陰暦では梅雨明け頃からが水無月となります。ですから「水の無い月」と書くのです。因みに今年の水無月の晦日を陰暦で見ますと、太陽暦の八月十八日となりますが、これは既に立秋を過ぎ、しかもまだまだこれから暑い日が続く時期でもあります。
 上賀茂神社の由緒略記によりますと、「夏越祓」とは新年から半年間の無事を感謝し、疫病の流行る夏を安心して過ごせるように厄を祓うものだそうです。衛生の未発達な昔、水無月は水のなくなるところから疫病の流行りやすい時期でもあり、また一年の半分の節目でもあって、ここを乗り切れば後半年、という思いもあったのでしょう。
 そのような理由から、この神事が大きな祭礼として今も残っているのでしょうね。

 さて、謡曲の『水無月祓』では舞台は下鴨神社に設定されているようですが、今「夏越祓」を盛大に執り行っているのは、上賀茂神社です。そもそも「夏越祓」と呼ばれるのは、年に二回の「大祓」の内、夏の終りに行われるものであり、この「祓」は『大宝神祇令』の中に六月と十二月の年に二回すべき「祓」であると規定される、日本古来の信仰から出発した神道行事です。ではこの「祓」という行為はどこから発したものなのでしょうか。

 「祓」を最初に行ったのは、先月の『第六天』でもご紹介した、素盞鳴尊(スサノオノミコト)です。高間原を追われた素盞鳴が、出雲の国の肥の川上に降る時に八百万の神が尊に課した「祓」がその起源を成していると伝えられます。

 また、「夏越祓」にはつきものの茅の輪ですが、これも「備後風土記」に見られる、武塔天神と巨旦将来と蘇民将来との伝説に起源を発しているとされています。武塔天神は素盞鳴尊と同一であるとされていますが、また牛頭天王の名によっても表されている神です。問題の備後風土記の記述ですが簡単に要約すると、

 武塔神が旅に出て日が暮れ、宿を借りようとした所、富貴だった巨旦将来は宿を貸さず、逆に貧乏この上ない蘇民将来は神に宿を貸し、粟飯を炊いてもてなしました。その夜、武塔神は本来の素盞鳴の姿に戻り、後世に疫病の有る時は蘇民将来の子孫を助けてやろうと約束します。
 即ち腰に茅の輪をつけて、その子孫であることを示せば、病がその人を避けて通るとお告げを授けたのです。

 茅の輪と共に、紙で出来た形代も、以前は茅萱で作られていたそうです。この茅萱を用いることの由来は大変古いのですが、これは古人が茅萱という物に呪力を感じていたためでしょう。
 貞観当時に創始された祗園会は、京都における疫病の大流行に際して、疫神を追い払おうとする行事ですが、この引山から投げられる茅巻も最初は茅の葉で包んでいたものが後に笹に変わったものなのです。

 にもかかわらず、なぜ謡曲では賀茂神社での祭事として舞台の背景に採られているのでしょうか。これは偏に賀茂神社の夏越祓が有名なものだからでしょう。
 では何故有名なのでしょうか。これは賀茂神社の由緒と密接な関係が有りそうです。「夏越祓」の祭事自体、夏に行われるものなので古くから「禊‐みそぎ」行事が加味されていたのですが、賀茂神社が出来た縁起というのも、禊と深く関わりあっています。
 下鴨の祭神である玉依姫命が賀茂氏とその民の農事での守護神の出現を祈って毎日賀茂川の辺で禊をしたことから、賀茂別雷神が現れたことによる‐つまり、禊は賀茂神社にとってその誕生と関わる、特別な意味を持つ行動なのです。このような由緒を持つだけに、賀茂神社では古くから「夏越祓」は重要な神事として、盛大に執り行われていたのでしょう。

 賀茂神社の「夏越祓」が有名であったことは、百人一首の藤原家隆の和歌からも読み取れます。

風そよぐ奈良の小川の夕暮れは 禊ぞ夏のしるしなりける

 賀茂川は、その源流の一端を水神として名高い貴船神社の祭神・高 神の社殿の下に発し、また玉依姫命の禊の故事を持つことから、中世の京都における禊の主たる場であったようです。

 では一体、「夏越祓」の神事にも頻繁と出てくるこの「祓」と「禊」という行為はどのような意味があるのでしょうか。「祓」も「禊」も神道行事として、日本では古来より多く行われている行事です。
 まず「祓」は、先ほど述べたとおり、素盞鳴之尊の行為が始めであり、過去に犯した罪穢を年二季に集団を対象として祓いやる行事であると解釈されています。しかし「祓」とはこのように過去の罪を祓うだけでなく、もう一歩進んだ積極的な面をも持つ行為なのです。
 というのも「祓」の持つ目的には、「善解除(よしはらえ)」と「悪解除(あくはらえ)」の二様の意義があるとされるからです。後者の「悪解除」は先ほど言った過去の罪障を清めることですが、前者の「善解除」は吉端将来を目的としています。
 つまり「祓」をすることによって、将来の吉事を呼び寄せるのです。祓の「善解除」の面は次に述べる「禊」の思想の反映であるとも言えるでしょう。

 「禊」の由来は、イザナギの神まで遡ります。愛妻のイザナミを失ったイザナギの神は、黄泉の国まで妻に会いに行きますが、見てはならないと言われた妻の死後の姿を見てしまい、大急ぎで黄泉の国から逃げ出します。
 何とか追手を逃れたイザナギの神がまずしたことは、「自分の身の穢れを払うための『禊』」です。そしてその結果、多くの神が誕生するのですが、ここから「禊」という行為は、「祓」と同様二つの面を持つことが分かります。
 つまり「禊」は、心身に降りかかった穢れを洗い流すのと同時に、神の出現を願う行為でもあります。玉依姫が毎日禊をした結果が別雷神の出現だったことがそれを表しています。そして後者の持つ意義の方が前者より大きいと理解されているのです。

 賀茂神社での「夏越払」は、つまり新年から半年間の穢れを祓い、その間の無事を感謝すると共に、この後の半年間の無病息災を願うための祭事であるわけです。
 謡曲『水無月祓』の物語は、生き別れになった二人が以上のような意味を持つ「夏越祓」の場で再会するのですから、舞台の設定を賀茂神社のこの祭事にした作者の意図に、何やら含蓄を感じるではありませんか。

 さて、では実際の「夏越祓」がどのように執り行われているのかご紹介致しましょう。

 六月三十日の朝、十時から「夏越祓」の神事は始まります。白と緑の袍に身を包んだ、宮司以下神職が境内の真中に立てられた茅の輪をくぐる所から神事は始まります。
 茅の輪のくぐり方は、まずくぐって左へ行き、次にくぐったら右へと8の字を書くように廻ります。そして最後、三度目にくぐったら大きく左から廻っておしまいです。この時、次の秘歌を黙唱するのです。

水無月の夏越の祓えする人は 千歳の命延ぶというなり

 そして本殿に参り、祝詞を上げます。この間、神職が二人ほど社内社を廻って神饌を供え、祝詞を上げて周ります。二人が戻ってくると本殿の一同も揃って橋殿に移動し、「中臣祓」を宣読してまた本殿に戻りそこで朝の神事は終わります。

 夜の八時にまた宮司以下の神職が茅の輪をくぐって橋殿に著座します。先ず朗詠、次に「中臣祓」を斉唱します。この間に集められた紙の形代を奈良の小川に流して行きます。

 橋殿では雅楽が奏でられ、全ての人形が流し終わると、祓物として木綿・麻布を引き裂いて川に投げ入れられます。そして大麻で神職から始めて、参詣者を東、北、南の順に払って行きます。この時、

おもふこと みなつきねとて麻の葉を きりにきりてぞ はらへつるかな

という歌を黙唱します。こうして「夏越払」は終り、大晦日の大祓式まで半年を過ごすことが出来るのです。

 最後に大分余談になりますが、この「夏越祓」に欠かせぬお菓子、それが「水無月」です。もともと陰暦の六月一日を「氷の節句」と呼び、宮中ではこの日に氷室を開けて氷を口にし夏の病や暑気払をしたものだそうです。
 が、夏の氷は大変高価な、というよりは貴重なもので、一般庶民の口に入る物ではありませんでした。そこで氷をかたどったお菓子をつくり、それを食べて厄を払ったのです。三角形の半透明の外郎の上に、邪気を払うという小豆を散らしたのが、この「水無月」です。


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