紅葉狩
(もみじがり)

 人寂しい場所で美女の酒宴に招かれ、不審に思いつつも差し出された一献を断われない…

 古今東西変わらぬ人間の、いや男性の弱点を見事に描いたといえるのが、この曲『紅葉狩』でしょう。山国信州の中でも、最も山深い信越国境・戸隠連山の、麓の里のあちこちに、謡曲の題材となった「紅葉」と言う名の鬼女の伝説が散らばっています。

 戸隠連峰は同時に、山岳信仰においても巨大な霊場として知られています。
 
主峰は「八方睨(はっぽうにらみ)」で標高は一九一一m。その他に西岳・五地蔵岳を含む表戸隠山と、乙妻山・高妻山などの裏戸隠山をあわせて、戸隠山という一つの霊山となっています。
 ここは室町の頃に最も隆盛を誇り、奥社・中社・宝光社の三社を中心に、九頭龍社・火之御子社を内包し、俗に「戸隠三千坊」と呼ばれる坊を数えたそうです。修験道霊場としての起源は嘉祥三年(八五〇)まで遡り、「戸隠山顕光寺」として開山しました。

 顕光寺の縁起によると、この年一人の学問行者が飯縄山で七日の間、西の大嵩(戸隠山のこと)に向って祈念した後、独鈷を投じました。その落ちた場所を求めると九つの頭を持つ龍が出現し、これを法力によって封じ、その上に寺を建立し開基なったと伝えられています。
 九頭龍を岩戸で岩窟に封じたので「戸隠」と呼ばれるようになったと書かれています。またその際に土中より、聖観音菩薩・千手観音菩薩・地蔵菩薩が涌き出でて、その後長く顕光寺の本地仏として奉られました。

 これが縁起に書かれた「戸隠」の名の由来ですが、明治の神仏分離によって寺院が廃れた現在では、戸隠神社の由緒によるもう一つの説が主流となっています。

 神代の昔、天照大神が弟の乱暴狼藉に怒って天岩戸に隠れ、八百万の神々が機略をもってその岩戸を開いた神話は大変有名で、能の曲にも色々と取り上げられていますが、その時岩戸を無双の力で開いた天手力雄命(あまの たぢからおの みこと)が飛ばした岩戸が落ちたのがここ、信州戸隠だったとする説です。

 その由来のせいか、戸隠神社の神々はほとんど岩戸開きの関係者です。まず本社として敬われる奥社の御祭神は、天手力雄命。現在社務所が置かれ、

 最も賑わっている中社の御祭神は、天八意思兼命(あまの やごころ おもいかねの みこと)。この神様が岩戸開きの計画を考えたとされています。
 そして宝光社の御祭神は、天上春命(あまのうわはるのみこと)。中社祭神の御子神だそうです。そして火之御子神社御祭神は、岩戸の前で躍った天鈿女命(あめのうずめのみこと)。

 九頭龍社のみが九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)といって、この地の地主神です。戸隠神社はそれぞれ起源の古い社なのですが、中でもこの九頭龍社は最も古く、第八代の孝元天皇の五年、西暦で言うと前二一〇年に奥社が創建された時には既に在ったと、伝えられています。
 ですが日本各地の大きな神社は、もともとの土地の神と、大和から来た神とを併せて祭っていることを考えますと、これは当然かもしれませんが…。

 さてこの五社、それぞれ祭神が違うことからも分かるように、当然違った御神徳があります。

 本社である奥社は、五穀豊穣・開運・心願成就など。中社は、学業成就・商売繁昌・家内安全など。宝光社は、技芸・安産・厄除け。火之御子神社は、祭神が天鈿女命のところから、舞楽芸能の神さまとして道に志す人々の信仰を集めて来たそうです。
 また九頭龍社はいかにも龍神らしく、水の神、雨乞いの神として、そしてもう一つ変わっているのが、ここは虫歯の神として信仰を集めているとか…確かに龍は、歯の良さそうな動物ですが、一体なぜでしょうか?神職さんにも伺ってみましたが、その謂れは分からないそうです。

 山中にも関わらず、今も多くの参詣者を見られる戸隠神社ですが、ほとんどの方は中社でお参りをして終りのようです。が、やはり本社である奥社に行かなくては意味がないと、今回私はまず本社から参詣を始めました。

 駐車場に車を停めて「奥社参道」という標識を入ると、少し下って小川を渡ります。橋のすぐ向こうに鳥居が立ち、両側を樺やブナの森に囲まれた参道が真直ぐに伸びています。鳥居の脇には「これより奥社まで一九〇〇m」の標識が小さく出ています。
 冒頭にも触れましたが、いかにも霊場といった重い空気はこの時はまだあまり感じられず、しかし鳥の声がやけに良く聞える、静かな参道でした。

 木漏れ日の洩れる広葉樹林が、杉の並木に変わるとすぐ、目前に山門が見えてきます。これは随神門といって約二キロの参道の、ちょうど真ん中辺りに位置しています。このような山門があるのが神仏混交の修験道時代の名残です。
 門をくぐるとここからは、両脇を樹齢四〇〇年になる杉並木が、参道を守り、道は少しずつ曲がりながら登りにさしかかります。鈍感な私が、この門をくぐると、なんとなく空気が変わったような気がしてきたのですから不思議です。参道にはもう木漏れ日も差しません。

 奥社が修験道の聖地として興隆を始めたのは平安時代初めです。そして鎌倉時代に下ると、参道の脇には沢山の坊が建ち並んだそうです。最盛期の室町時代には、天台宗派が、真言宗派がの寺院をかかえる一大霊場となりました。
 今でも随神門の奥には参道から分け入る小道がそこここ残り、その先は苔むした平地となって往時を偲ぶことが出来ます。

 しかしこの隆盛も長くは続かず、まず天台・真言両派の争いが始まります。天台宗と真言宗のように、同じ仏教という宗教の、同じ頃に成立した、また密教という教義上も似通った性質のものが憎み合う立場になると、近親憎悪となってより血腥い闘争に発展するのかもしれません。
 甍を並べた大伽藍も、この抗争の犠牲となって次々に破壊されたそうです。時代もまたこの動きに追い討ちをかけました。時代は戦国の群雄割拠時代となり、信越国境の戸隠は、上杉・武田の争いに巻き込まれ、長い歴史を誇る戸隠の霊場も、1時他所に移るまでに衰微してしまいます。
 江戸時代になって漸くこの衰微に終止符が打たれ、徳川家康から千石の寄進を受け、「戸隠権現」として幕府の庇護下に入ります。奥社参道の立派な杉並木も、この頃出来たものだそうです。

 随神門から更に五〇〇mほど進むと、登り道は石段となります。森閑とした姿を消し、石段の間隔が狭くなり、曲がりくねって来ると、見通しが良くなり終点の戸隠神社奥社に着きます。少し離れて見ると、奥社は岩屏風のような戸隠連山の懐中央に位置し、まるで山を背負って立っているようです。

 奥社に登る最後の石段脇に、九頭龍社が鎮座しています。この地の神である九頭龍社は水を司る神としての信仰が厚く、今でも日照りの際の雨乞い祈願者が多く参詣するといいます。

 さて奥社を後にして街道を4kmほど下ると、戸隠神社中社に出ます。街道に面した中社が、今では戸隠神社の中心となり、最も多くの参詣者を集めているようです。
 比丘尼伝説にまつわる御神木・三本杉の横に真直ぐに伸びる石段を上がると、正面に中社本殿、向って左に社務所。そして右奥には小さな瀧が残り、神仏混交の修験道時代に思いをはせることが出来ます。境内の一隅には神輿蔵があり、大正期に作られたお神輿がその中に保管されています。これは七年に1度の大祭の際に人の担ぎ手によって担がれるそうです。

 中社を後にしてまた街道を下ります。道の両側には、山奥には珍しいような、瓦葺のどっしりとした宿坊が建ち並んでいます。これらの宿坊や旅館は、明治政府の廃仏毀釈政策に伴い、廃止されたかつての寺院の旧跡です。
 その時に破壊を免れたものが、現在戸隠参詣の人々に宿を提供する宿坊となって残っています。また同じ頃、従来僧だった者は、世襲の神官となり、神職の傍ら宿坊を営んで今に至っているそうです。

 さて宿坊が途切れる頃、火之御子神社に到着します。この火之御子神社は一〇九八年頃の創建当初から、神社として終始してきた唯一のお社です。また岩戸開きの立役者である、天鈿女命を祭神とするこの神社には、古くから太々神楽と呼ばれる神楽が伝えられています。
 現在でも大祭や例祭のたびに、中社や宝光社の社殿の中に作られた舞台で催される太々神楽は、もともとこの神社の神職によって、古から伝えられたものでした。萱葺きの屋根が往時を偲び、境内には西行法師所縁の西行桜が植えられています。

 火之御子神社のすぐお隣が、戸隠五社最後の宝光社です。二七〇余段という、最も長く急な、真直ぐの石段を上がるとすぐ正面が社殿になっています。この社が最も神仏混交時代の面影を残していると言われるので、長い石段にめげず、がんばってお参りしていただきたい神社です。

 戸隠から南方へ、地元の車しか通らないような山道を、本州一といわれる水芭蕉の群生地を眺めつつ車を走らせると、鬼無里(きなさ)という里に出ます。
 ここは謡曲『紅葉狩』の主人公・鬼女紅葉の伝説が残る里です。
 清和天皇の御世、陰謀を企て伊豆へ流された者の子孫が奥州会津に流浪しました。その子はたいへん美しい女子で評判になり、土地の有力者にぜひにと懇望されました。
 当時の陸奥は、都から大変遠く、人々は都の文化や事物にあこがれておりましたから、流罪の者の子でも構わなかったのでしょう。

 しかし支度金を受け取った親子は都へと逃げ、変名をつかい、女子は紅葉と名乗り、源経基の奥方の侍女として仕えました。紅葉はその美しさゆえ、経基の寵を受け、その種を宿すまでになりました。
 そうなると邪魔なのは経基の奥方とばかり、紅葉は密かに妖術を使い、奥方を病に伏せさせてしまいます。ところが奥方の病気平癒のため比叡山の高僧が招かれ、その加持祈祷と御札を受けなかったことから、紅葉の悪事は露顕し、召し捕られ、経基のお情けで信州戸隠山へ追放されてしまいました。

 戸隠山の岩屋に立て籠もった紅葉は鬼女となり、「おまん」という名の怪力の女や、山中の荒くれ男を手下に、妖術を使ってさんざん悪事を働きます。これが都にきこえて、朝廷は平維茂を鬼女紅葉退治に遣わします。

 この地方の地理に明るくない維茂は、下祖山のあたりに来て、紅葉の本拠を探しあぐねました。そこで弓矢によって占おうと、見晴らしの良い場所に立ち、八幡大菩薩を念じて二本の矢を天に向かって放ったところ、二本の矢は西北の方角に飛び、裾花川を超えてはるか志垣の里に落ちたのです。
 維茂の一行は勇躍して西北の方角に向かいました。

 途中、橋の無い裾花川を渡らねばなりませんが、川に引っかかっていた倒木を渡り、志垣の里から荒倉山をめざして進撃しました。そしてついに鬼の岩屋近くの、母袋(もたい)の地に陣をしきます。

 紅葉のようすを探るため、維茂は程良い林の中に幕を張りめぐらして酒宴を催します。そこへ紅葉が何くわぬ顔をして加わり、一緒に紅葉(こうよう)を愛でて打ち興じました。
 一説には、紅葉たちが紅葉狩の酒宴をしているところへ、法衣をまとい、旅の修行僧になりすまして様子を探りにきた維茂が、酒宴の席に招き入れられたともいいます。紅葉に美酒をすすめられた維茂はそれが毒酒である事を見抜き、飲むふりをしてこっそり捨ててしまい、無事だったという事です。
 また別の説では、維茂の方が紅葉に毒の入った酒をすすめて、酔い伏したところを斬り平げた、とも伝えられます。

 さて、維茂はいよいよ軍勢をととのえて進発しました。最初の激戦地は毒の平(ぶすのたいら)へ入る急傾斜地、木戸のあたり。攻める側も守る側も入り乱れて戦い、木戸を突破した維茂軍は勢いを得て進撃します。 そして毒の平、竜虎ヶ原が最大の決戦地となります。
 
紅葉はついに鬼の姿になって現われ、妖術を使って維茂軍を悩ませました。

 しかし維茂は、八幡大菩薩を念じつつ剣をふるい、とうとう紅葉を斬り伏せました。 そして残党を追って釜壇岩から鬼の岩屋へ、さらに山の峰まで進撃しほぼ掃討することが出来ました。

 維茂軍が勝ちどきをを上げたところは、いま「安堵ヶ峰(あんどがみね)」と呼ばれているそうです。

 大力無双で非常に足の速かった紅葉の部下の「おまん」は、ただ一人生き残り、中社の勧修院という寺に逃げ込みました。そして、紅葉一族の全滅を知り、世の無常を感じて長い髪をおろし、出家の身となってから自害して果てたということです。

 一方勝利を収めた維茂は、紅葉の遺体を、志垣の里は矢先八幡の近くの小高い丘に埋葬し、五輪の塔をたてて供養しました。紅葉を斬った剣は戸隠権現に奉納しました。

 戸隠から凱旋した維茂ですが、紅葉との戦いに傷ついて、稲荷山(現在更埴市)の八幡宮で亡くなったとか、別所温泉(現在上田市)で湯治をしたが、癒らずに果てたとか言われます。

 また、元は水無瀬(みなせ)といった 村を、鬼女紅葉を退治したことにより鬼無里村に改称したとも伝えられています。

 鬼女紅葉の話しは、『太平記』にも載っており、退治したのは多田満仲とされています。満仲は紅葉を寵愛した源経基の長子です。大江山の酒呑童子という鬼退治をしたのは、この多田満仲の長子の頼光と四天王と呼ばれる彼の郎党たちでした。中でも四天王の一人、渡辺の綱は一条戻橋や羅生門の鬼とわたり合い、酒呑童子の手下・茨木童子の腕を斬りおとします。

 満仲の子孫である、源頼政も鵺を退治して名を上げますし、また別の子孫・義経は天狗に兵法を習います。

武家だから当然なのかもしれませんが、源氏というのは、ずいぶん鬼や化け物に縁の深い家ですね。


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