仲 光
(なかみつ)

こ の曲にシテの名前を冠せたのは観世流のみで、他のお流儀ではツレの名前をつけ『満仲-まんじゅう』としています。この満仲と呼ばれる人物こそ、鎌倉以降連綿と続く武士政権のおおもと、清和源氏の本流なのです。
 満仲は、正しくは源満仲(みなもとのみつなか)と言い、大江山の酒天童子や土蜘蛛退治で名高い、あの頼光のお父さんです。

 第五十六代清和天皇の皇子・貞純(さだずみ)親王の息子である六孫王・経基王(つねもとおう)は、増えすぎた親王家を整理するという、時の朝廷の方針に従って臣籍降下し、源氏の姓を賜り源経基と名乗ります。
 その長男が源満仲ですが、摂津多田庄を領地として賜り、この地に移り住みます。そして清和(多田)源氏と呼ばれる血統を作っていくのです。

 満仲に、正確には何人の男子があったのか定かではありませんが、良く知られているところで、まず長男である頼光(よりみつ又はらいこう)。この流れは摂津源氏となって後世に続き、頼光の四代後が、源三位入道頼政(げんさんみにゅうどう・よりまさ)です。
 次男は頼親(よりちか)。この後胤は大和源氏となります。そして三男・頼信(よりのぶ)ですが、この孫が「八幡太郎」とも呼ばれた義家です。その息子が六条判官為義、その長男が義朝、そして頼朝と続くのです。

 今回の能『仲光』での重要な登場人物、美女丸はいわゆる源氏の系図に名が出てくることはほとんどありませんが、それは恐らく僧籍に入ったからだと考えられます。何故僧籍に入ったかはまた後に述べるとして、美女丸伝説縁の地を御一緒しましょう。

 能『仲光』を廻る旅は、美女丸が最初に預けられたという中山寺から始めたいと思います。

 中山寺‐正式には、紫雲山中山寺と呼ばれるこの古刹は、今よりおよそ一四〇〇余年の昔に聖徳太子によって開かれた、我が国最古の観音霊場だと言い伝えられています。
 関西と言う所は、関東に比べると大変平地が少なく、中山寺も大阪の梅田から阪急宝塚線で25分という近さながら、門前はすでに鄙びたのどかさを湛えています。駅を降りるとすぐに門前市が始まっています。

 中山寺は、聖徳太子が、第14代仲哀天皇の后であった大仲姫とその一門の霊を慰めるために、姫の墓所のあった大柴谷丘陵のうち、中の山に開基したのがその始まりです。
 本尊は十一面観音像ですが、この観音像は古代インド・アユジャ国の王妃である、シュリーマーラー(勝鬘夫人‐しょうまんぶにん)を写しているそうです。この王妃は両親の導きによって仏教に帰依した後、釈迦の教えをことごとく悟ったとされている女人で、聖徳太子は女人済度の為、王妃の説いたお経の解説書「勝鬘経義疏‐しょうまんきょうぎしょ」を著しました。

 天皇の后縁の地に建てられ、インドの王妃縁の観音像をご本尊にしたお寺であるせいでしょうか、中山寺は昔から女性の信仰を集め、特に安産・求子の寺として栄えてきたそうです。

 これを裏付けるかのように、秋の傾く陽射しに包まれた境内は、どちらを向いても子供連れの姿ばかり…のうのう便りを書き始めて以来、随分色々なお寺を廻ってきましたが、こんなに子供の多いお寺は初めて見たと言っても良いくらいです。
 そういえば門前に並ぶどこの店でも店先に「さらし」を置いてありましたが、きっとあれは腹帯用のものだったのでしょう…

 中山寺の山門をくぐると、本堂へと続く参道の両側に、総持院、華蔵院、宝蔵院、成就院、観音院の子院がが立ち並びます。これら五つの院と階段を上がった所の大黒堂、寿老神堂は、それぞれ干支の守り神となっています。
 まず大黒堂が子年。成就院が丑寅。総持院が卯年と酉年。観音院が辰巳。寿老神堂は午。宝蔵院が未申。最後に華蔵院が戌亥の守り神なのです。

 寿老神堂と大黒堂の間に大仲姫の陵墓と信じられる「石の唐櫃」があります。柵で隔てられてはいますが、中は十分明るく石棺も良く見えます。大仲姫と言う人は王妃であり二児を得ていたのですが、早死にしてしまいました。
 後妻の神功皇后は自分の息子である応神天皇を位につけるため、大仲姫の遺した二人の皇子を次々に滅ぼします。そのうちの一人、忍熊王の遺体が収められていたのが、「唐櫃」の横に置かれている「安産手水鉢」だと伝えられています。

 遺体の入っていた骨壷が、そこで手を洗うとどんな難産でも安産に転じるという言伝えを持つものになるとはどうも大変なアイロニーですが、まぁ女性に縁の寺と言うことで仕方がなかったのかもしれませんね。

 丘陵地を開いて寺を建立したとはいえ、中山寺は紫雲山の名に恥じず、かなりな急斜面を登らなくては本堂に辿りつけません。
 中山寺の本堂は、大きなお腹を抱えた妊婦さん。百日目のお宮参りらしい、礼装の親子・祖父母連れ。お礼参りらしい、ベビーカーを曳いた親子連れ。子育て祈願らしい少し大きな子供連れ。七五三の申込みらしき人々等など…そこもかしこも子供だらけでした。

 本堂の階段脇には、願掛けの涎掛けに埋もれるようにして、「びんずる尊者」が鎮座していました。これは、仏教を守ると誓った、インドの十六羅漢の一人です。
 日本では常に本堂の外に置かれ、一般には自分の病気の部位を像を撫でることによって治してくれるとされています。けれどもここ中山寺のびんずるさんは、安産の祈願や子育ての不安、そんなものに埋もれて黒光りしておられました。

 中山寺も、他の古い寺院と同じく、幾多の戦乱を経てきています。そのせいで建立当初の最古の建物も、多田源氏光仲の庇護を受けたはずの建造物もすでになく、現存する本堂は豊臣秀頼によって寄進された慶長年間のものです。
 秀頼が何故中山寺に帰依したかというと…御承知の通り彼の父親の秀吉には、なかなか子宝が授かりませんでした。秀吉は、そこで子授けに霊験あらたかなこの中山寺にやって来ます。すると首尾良く淀君に秀頼が授かったのです。

 中山寺で子宝を授かったのは、淀君だけではありません。幕末には、中山一位の局が当寺の「鐘の緒」を受けました。すると明治天皇を身篭り、無事出産したというのです。
 この「鐘の緒」というものは、満仲八代の後胤、源行綱の不信心な妻を、ご本尊の観音様が戒められたと言うものなのですが、どうやって戒めたのかは分かりません。今では寺宝になっている、この古びた鐘の緒を見ながら、「どうやって…?」としばし考え込んでしまいました。

 さて本堂を過ぎてさらに上ると、子授け地蔵さんが祭られています。これだけでもかなり見ごたえのある中山寺ですが、まだまだ終りではありません。一旦寺域から出るようにしてさらに裏山を登って行くと、観音平公園に出ます。こちらは新年には梅、五月には藤と季節の花が咲き競う広い公園になっています。
 そしてここからまた30
分ほど山に登ると、やっと奥の院に辿り着きます。今ですらこんなに深い山寺なのですから、美女丸が預けられた頃にはどんなに森閑としていたことか…想像に難くありません。

 さぁ、そろそろ腰を上げて美女丸が成人後、出家して一時期を過ごした満願寺へと向いましょう。

 満願寺は、同じ阪急宝塚線の雲雀ヶ丘花やしき駅から、バスで20分ほどの場所にあります。最初のお寺・中山寺も、大分のんびりした感じの所でありましたが、こちらはもうのんびりを通り越して、山寺、といった趣です。心なしか吹く風も、ずっと肌寒いように感じられました。
 急な階段をのぼりつめ、ちょっと変わったシルエットの山門をくぐると、参道はなだらかに下り、また登りにさしかかります。丁度谷底にあたる左手は少し開けた公園になっていて、近所の子供たちらしい小学生が数人、サッカーをしているのも、最近都会ではあまり見られなくなってしまった光景でした。

 境内の金堂脇には向って左から美女丸・幸寿丸・藤原仲光と三人の墓があり、石塔が仲良く並んでいます。

 その他にも満願寺には、金堂の裏手に「源家七塔」として源国房(頼国次男)・光国(国房嫡男)・明国(頼国孫)・仲政(頼綱次男)・国直(頼国三男)・行国(明国嫡男)・国基(国直息)の、それぞれの石塔が立ち並んでいます。
 寺域から少し外れた所には、頼光の四天王の一人、坂田金時(まさかり担いだ金太郎の元服後の名前)の墓もひっそりと立ち、源氏縁の寺に一層の興を添えています。

 一時はあまりの不勉強に本当の父に命も取られそうになった美女丸でしたが、成人後はこの寺に住んで観音経を良くしたりと、大分改心したように見られます。

 秋の夕日は釣瓶落し。ここから多田神社までは3km半。さっさと歩いても、途中山道もあり50分弱の道のりです。落ち着いた佇まいの寺に後ろ髪を曳かれつつ出発しました。

 源家七塔と仲光たちの墓の間に、多田神社へのハイキングコース出発点があります。道はまず、ゴルフ場に沿って大きく湾曲し、そして小川に沿って降って行きます。
15分ほど山道めいた所を歩いたかと思うと、急に視界が明るくなりました。大阪のベッドタウンのこのあたりは、山を切り開いて作った住宅地がそこここにあり、そのせいで山に入ったと見ては急にまた人家のある所へと転回するのです。

 いかにも新興住宅地といった小奇麗な街を通り抜けると、昔ながらの街道沿いの町に入ります。そこから曲がると、そこはもう多田神社につながる朱塗りの太鼓橋です。
 西の方には暮れなずむ秋の夕焼けが山にかかって広がり、朱塗りの橋を掛けられた川の水は澄み、一瞬群馬の伊香保温泉にでも来たようでした。

 この橋を渡り、長さはそれほどでもないが勾配の険しい胸突き八丁の石段を登って、多田神社に入ることが出来ます。神社だからと思ってあまり急がずに歩いていた私は、ここでしてやられてしまいました。
 なんとこの神社の正面には鳥居がなく、お寺のように山門がそびえていたのです。そしてその門扉は、確りと閂が下りておりました…

 「ここまで来たのに…」と諦めきれずにうろうろと神社の周りを歩いていると、神職さん達の通用門を発見しました。ちょうどそこから犬の散歩に出てきた女の子に頼むと、なかなかハンサムな若い神職さんが中を案内してくださることになりました。

 先ほど入ることの出来なかった正門は、南大門と呼ばれています。この門をくぐり、樹齢千年を数えるむくろじの木下を通りぬけると、またもや桧皮葺の門があります。こちらは随神門。この門をくぐって、やっと拝殿、本殿にいたることが出来るのです。
 玉砂利を敷きつめた境内正面に先ず見えるのは、拝殿です。その後に本殿があります。多田神社の御祭神は、満仲を始め、頼光、頼信、頼義、義家の五公であるとか。この五公は、清和源氏(多田源氏)の奔流で、他にも村上天皇や宇多天皇から分れた、村上源氏などの源家もあるそうですが、武家の嫡流といえばやはりこの清和源氏だそうです。そのため代々の政権を取った武家の頭領である将軍や、力を持った豪族も、我こそは源氏の血を引く者と名乗り(もちろんその中にはかなりいかがわしいものもあったようですが)、天下を狙ったのだというのは歴史の通説です。

 神職さんは、本殿裏の満仲・頼光の御廟所へと案内してくださりながら、美女丸について、まるで御自分の知人のことをお話するかのような口調で教えて下さいました。曰く…

「美女丸さんは末っ子だったんでしょうなぁ。寺に入らはりましたから。武家の社会では、戦乱が起こって、血が絶えてしまってもお家再興が出来るように必ず兄弟の一人はお寺に入れたんだそうです。負けて滅んでしまうと、家来達が探しに来て、その残った血統の人を担いでまたお家を立てるんに必要なんです。寺に入っとれば殺されませんから。それと武士ですから、どうしても殺生せんとあきませんな。その自分等の犯した殺生と、殺されてしまった人の菩提を弔う人が、一族に必要だったんですな。そやからちゃんと勉強しないゆうことで、死んでしまえ〜となるんと違いますか。多田源氏を訪ねるゆうことであれば、この辺りには他にも小童寺ゆうお寺があって、そこには美女丸さんと幸寿丸と仲光のお墓がありますよ。満願寺のは塚ですから。それと頼光さんのお名前を頂いた、頼光寺ゆうのも近くにありますし、仲光さんの奥さんの実家のほうのお寺ゆうのもあります。それに比叡山まで美女丸さんも逃げるわけですから、大変なことですわ。」


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