野 守
(のもり)

 大方の予想を裏切って、今月の「のうのう便り」は『野守』を取り上げます。その舞台となるのは、春日山の西麓一帯に広がる春日野。ここは、春日大社の一の鳥居を東に入った辺りの浅茅ガ原、その南の片岡の梅林、そして東に進んで春日大社の表参道の南側に広がる飛火野を総称して言う名でもあります。
 実際に『野守』の舞台と、謡本に記されているのは飛火野となっていますが、ここでは春日野全体をイメージして見たいとおもいます。

 今の日本人にとって、それも東京に住む者にとって最も馴染み薄い風景とは、遥か地平線まで広がる大平原、つまり野ではないでしょうか。
 もともと、南北に長く東西に細い、山がちな島国である日本に、モンゴルの草の海、又アメリカの大西部のような景色は望むべくもないのですが、こんなにも人口が増え、都市化が進む以前には、野は、身近に多々あったようです。
 万葉集を見ると、これがさらに良く分かります。山や海や川を詠んだ歌に混じって、野を詠んだ歌がたくさん見られるのです。それらを見ると野という場所が、春の若菜摘みに始まって、狩猟、薬草摘み、そして行楽と古代の人々にとってなくてはならない、生活に密着した場所だったのだなと感じるのです。

君がため 春の野に出でて若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ

 これは、百人一首にある光孝天皇の歌ですが、その外にも万葉集に

明日よりは 若菜摘まんとしめし野に 昨日も今日も雪は降りつつ

等の若菜摘みの歌が良く見られます。

 風の吹き渡る野には、開放感もあったでしょう。それは、普段なかなか外に出る機会のない、大宮人達にとって、尚更のものだったに相違ありません。
 そのためか、野で歌われたものは、恋の歌が多いようです。先ほどの光孝天皇の歌もそうですが、野の相聞歌と言ったらやはりこれ、

 あかねさす 紫野行き標野行き

      野守は見ずや 君が袖振る

 むらさきの にほえる妹を憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも

 有名な額田王と天武天皇の歌です。この二首は春日野で作られた歌ではありませんが、ここにも野守が登場します。
 野守は、古代の大宮人にとって、大切な野を守ってくれる者であり、身分は低いけれども、直接言葉を交える機会がある役職だったようです。となれば、春日野にも野守が実在したはずで、彼を詠んだ歌も、謡曲『野守』の中にある

箸鷹の 野守の鏡得てしがな 思い思わず 外ながら見ん

だけでなく、他にもあるに違いないと思っていると、古今集に、一首見つかりました。

春日野の 飛火の野守出でて見よ 今いく日ありて 若菜摘みてむ

 先ほどお話したように、モンゴルの大草原と違って、日本の野、特に春日野は、ただ茫々と広いだけでなく、緑濃い山に囲まれ、森に区切られています。

 奈良の山々は標高は低くとも奥の深いところ、太古の昔、森は今よりもっと鬱蒼と茂り、神秘を漂わせていたことでしょう。そう想像すれば、謡曲『春日野』にある故事も頷けます。

 その故事とは、雄略天皇が春日野で鷹狩の鷹を見失ってしまっていると、野守がどこからともなく現れて、池の水に映してその行方を教えてくれたというものです。
 このようにふと現れまた消える野守は、ちょっと人間離れした存在に見えたのでしょう。野守の老人は実は野を守る鬼神であるという能の演出も、なるほど納得のいくものです。

 また、鏡というものはこれも神秘を感じさせるものです。ご存知のように古代において鏡は、大変な財宝でした。古墳から大量の鏡が出土することからもそれが良くわかります。しかしなぜ鏡が宝物かということに関して、決定的な決め手はまだないようです。
 これは素人の推測でしかないのですが、私は鏡が太陽のかたどりだからではないかと思うのです。鏡は大抵丸く作られていますし、銅鏡とは言えほんの少しの光で反射をします。
 日本という国名からもわかるごとく、我々の国は太陽を崇拝し第一神も天照大神という太陽神です。けれども太陽を手元に置くことは不可能。そこで太陽をかたどった、太陽に似た性質を持った鏡を、権力者たちは尊重した…おまけに鏡には物を映すという性質があるのです。
 銅鏡の表にぼんやりと映った影は、それが明確でないだけに、真の姿が映ると信じられたのでしょう。

 今までのことは全くの推測ですが、こうやって勝手に想像をめぐらすことも、また古代史を知る楽しみではないでしょうか?

 現代都市として発展を続ける京都と違って、古都奈良は鄙びた面影を今でも町中に濃く残しています。
 この奈良を舞台とした能は、およそ五十曲余りもあると言います。そして、大和はまた能発祥の地でもあります。次のお休みには、大和路を能散策と洒落てみてはいかがでしょうか。こんな優しげな石仏が、道々の疲れを癒してくれること請け合いです。


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