野 宮
(ののみや)

 動力ができる前というのは、人の移動は全てその足に頼っていたのです。ましてや、馬や馬車を利用することの多かった西洋と違って、日本では、どこへ行くのもひたすら「テクシー」。
 今ですら、一泊の予定だと嵯峨野行きは時間と相談して見合せることの方が多いのに、ましてや平安京の時代に一日で行って帰って来るのは、それこそ大変な事であったでしょうね。光源氏の恋にかける情熱には頭が下がります。

国宝「源氏物語絵巻」より光源氏と惟光
 それにしても、この度大変な思いをしてまで会いに行った相手とは、かの六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)というのだから驚きです。
 六条御息所は、源氏物語の中でも非常に目立つ人物です。大変な教養とプライドの持ち主であると同時に、源氏を恋する余り、生霊にまで身をやつし、初めは源氏の愛人・夕顔を、次には正妻・葵上を憑り殺し、ずっと後になって、紫上の死因ともなる大病をさせるのです。
 それでも、作者の紫式部はこの女性のことを大変「ゆかしく、あはれ」だと形容しています。六条を言葉で説明するには、それこそ大論文ができあがってしまうでしょう。六条御息所とは、本当に一口で説明の出来ない、複雑な性格を持った人物で、そして源氏物語をこんなにも面白くしている第一の登場人物なのです。

 さてあまりにも有名なこの貴女ですが、もしや御存知ない方のためにちょっと説明を致しましょう。六条という人は、源氏のお父さん、桐壺帝の兄弟の正妻です。夭逝しましたが、夫は前の春宮でした。
 つまり彼女はもともと皇太子妃だったわけです。大臣の娘に生まれ、夫の死がなければ、ゆくゆくは皇后となり、息子が生まれれば、皇太后となるべき身分の女性でした。
 しかし運命はこの女性に対して厳しく、歳で春宮妃となった後、歳で未亡人となってしまいます。彼女は残された姫君と、都は六条の京極に近い、少々寂しい場所で、風流人として残された世を送るはずでした、光源氏の出現がなければ…

 源氏の方は、恋焦がれる女性・藤壺は父帝の妃であって到底手の届く存在ではなく、幼くして結婚した相手・葵上は、左大臣と内親王、つまり帝の娘の間に生まれたという大変なサラブレッド。
 そして葵上はもともと源氏の異母兄弟である春宮の妃に望まれていて、それはもう気位高く育ってしまった姫君です。源氏は藤壺と隔てのない間柄を楽しんで、のびのびと育っていましたから、葵上との間にもそのような柔らかい関係を築きたく思ったのでしょう。
 が、不幸にも葵上は、何事にも格式ばらずにはいられないように育てられた「かわいそうなお金持ちのお嬢様」でした。このため源氏の結婚生活は非常に味気なく、結果、理想の女性を求めて遍歴を続けてしまうのです。

 源氏が六条と出会い、強引にその愛を求めるようになるのも、この満たされない気持ちが主な原因となっているとされています。
「雨夜の品定め」 貝合せ・林原美術館蔵

 光源氏は、プレイボーイの代表のように言われていますが、作者の意図は少し違うようです。源氏物語・帚木の巻にこう書かれています。「いといたく世を憚り、まめだち給いける程、なよびかに、をかしきことはなくて…」簡単に現代語訳しますと、「自重して真面目な源氏は、恋愛には疎かった」ということになるのですが…
 どうも疎い割りには、八つも年上の、それも固いと評判の六条を恋人にしたり、藤壺との間に子供をもうけたり、政敵の娘・朧月夜と関係を持ったりと、光る君の名に恥じず、きらびやかな恋愛歴の持ち主です。
 しかしそれも、彼の真面目さゆえかもしれません。というのも、前述の帚木の巻はまず最初に源氏の本性を述べたあと、「雨夜の品定め」という場面になります。
 そしてそこでまだ若い源氏は、頭の中将を始めとする名うての好き者達に、「こういう女は良い。ああいうのはだめ。中流には、はっとするような良い女がいる」などと良からぬ教えを受けてしまうのです。真面目な光源氏はこの教えを忠実に実行に移したようです。
 なぜなら彼の遍歴が始まるのは、正に品定めの後からだからです。昔も今も、悪い友達というのはいるのですね。

「六条御息所と葵上の車争い」 住吉如慶画・源氏物語画帖
 さて話が大分『野宮』から反れてしまいましたが、葵上の死によって、源氏は六条から遠ざかることになります。
 この部分は能の『葵上』に詳しいので省略しますが、六条は生霊となった姿を源氏に見られてしまうのです。
 確かに、女のそんな浅ましい姿を見て、惚れ直す男がいるものでしょうか。源氏も然りで、六条への渡りはぱたりと途絶えます。

 プライドの高い彼女は大変苦しみますが、またその誇りゆえに素直に過ちを認めることも出来ず、いっそのこと、伊勢の斎宮に決まった娘に付き添って、伊勢の国へ引き込んでしまおうと決心するのです。
 斎宮とは、皇室の先祖である天照大神を祀る伊勢神宮の巫女のことで、代々皇女がその役にあたっていました。一度は未来の皇后とまで決まった女性にとって、住みなれた都を離れて、伊勢のような侘しい所に、それも娘の付き添いで行こうというのは、大変な決心だったことでしょう。
 それは、源氏がそのことで父帝から叱られた事でも良く分かります。だからと言って夕顔そして葵上の死は、源氏にとってもそう簡単に忘れることの出来るはずもなく、そうなれば六条との間もそれ以上進む事もなく過ぎて行きました。

 その関係が急展開を迎えるのには、非常に政治的な原因が絡んでいます。源氏物語が面白いのは、単なる恋愛小説で終わるのではなく、光源氏という人物の生涯を書く事によって、平安期の政治の模様を余さず伝えていることにもあるのです。

 源氏を取り巻く世界は一変しました。あれほど源氏を可愛がった帝は死に、後見役であった舅の左大臣は失脚します。代わって天下の中心となったのは、現帝の外戚である右大臣とその娘・源氏を眼の仇にしている弘徽殿の女御でした。世間の風は移ろいやすく、今まで源氏をもてはやした者も、ぴたりと寄り付かなくなります。

 源氏が嵯峨野の野宮神社にかつての恋人・六条御息所を訪ねたのは、このような世情の中のことでした。なぜ源氏は、この時になって六条を訪ねる気になったのでしょうか。

 もちろん伊勢への下向が真近になったということもありましょうが、それだけではないはずです。思うに源氏は、初めて世間から疎まれるにつけて、自分に疎まれた御息所の心情に思い至ることが出きるようになったのではないでしょうか。また四面楚歌の状況の中で、生霊となるほど激しい愛情を自分に抱いてくれた六条の気持ちを、もう一度感じたかったのでしょう。
 そう考えると、物寂しい秋の嵯峨野へと、浅茅ヶ原を露にまみれて急いだ源氏の気持ちがわかります。源氏は、生涯最大の難局を乗り越えるため、御息所の愛に浸りに行ったのでしょう。
 しかしながら源氏は、心から六条に留まって欲しいと思っていたのでしょうか。

「源氏物語・賢木の巻」 住吉如慶画・源氏物語画帖
 六条御息所もまた、複雑な気持ちを抱いて源氏と対面しました。目の前に、どんなに振り切ろうとしても振り切らせてくれない、年若の恋人がいます。この恋人は、自分の都合の良い時だけやって来ます。
 でも、それを断りきれない歯がゆさ、悔しさ…。頭の良い御息所には、もう一つ分っていることがありました。
 どんなに和解したかに見えても、生霊となった自分の姿を、源氏は決して忘れることがないということです。よしんば源氏が忘れても、御息所自身が忘れることが出来ないのです。その陰は二人の間に埋めることの出来ない溝を作ってしまいました。これを埋めようとすれば、もっと悲惨な結末しかあり得ないのです。

 それら全てがわかっていて尚、二人は会ってしまいます。そして白々と夜が明けそめる頃、結局二人の行く道は分れることとなりました。

 季節は晩秋。これから冬に向かってもの皆全てが枯れて行きます。しかし、六条と源氏の仲は共に冬を迎えることなく終わります。いうなれば、名残の紅葉を一緒に見て、そのまま冷たく白い朝もやにまかれたとでも言いましょうか…

 この終わり方は、後の物語の進行にいかにも象徴的です。御息所の娘は後に、源氏と藤壺の子・冷泉帝に入内し、秋好中宮と呼ばれます。夫婦仲は円満ですが、その間に子供はできません。
 二世に到っても、二人の間には後が残らないようです。また、六条自身の妄執もこれで終りになった訳ではなく、時が経って、源氏がふとしたことから紫上に御息所のことを話してしまうと再燃し、今度は何の罪もない紫上を襲うのです。

 謡曲『野宮』は、この秋の季節を取り入れることにより、源氏と六条の果てのない、錯綜した縁を暗示しています。
 また、神域と俗界を隔てる結界である鳥居を作り物として舞台に置くことで、源氏と御息所、彼岸と此岸、妄執と昇華、などの様々な境を大変上手く現しているように感じます。

 そして、能の『野宮』に於いてさえ、御息所の心が晴れたのかは、観る人の側に委ねられます。地謡が最後に「火宅の門にや出でぬらん、火宅の門」と終わり、もう一度「出る」ことを明確にしないのは、六条自身の「本当にもうこれで終りなのか」と自問するような不安と、「終りにしたい」という願望が込められているからだと思うのは、私の考え過ぎでしょうか。

 手前味噌ではありませんが、最小の表現で最大を表す能でなければ、源氏物語のエッセンスは表現し得ないのでは、と思います。特に、六条御息所のような複雑な心は…

 十一月の終りから、十二月にかけて、嵯峨野の紅葉は本番を迎え、野宮も錦秋に包まれます。野宮へと行くには、昼でも暗いほど両側に竹の茂った小道を歩いて行くのです。
 竹のトンネルを抜けると、鮮やかな紅に染まった野宮の入口に行き当ります。「火宅の門」と謡われて終わった、六条御息所の心を知るには、嵯峨野を訪れるのが一番の近道かもしれません。



 嵯峨野は他にも多くの王朝文学のドラマの舞台となっています。それもほとんどが、恋に破れたり、恋に疲れた女人の隠れる土地として…

 野宮神社の程近くには、清盛によって高倉帝から遠ざけられた、小督の局が隠れ住んだ跡とされる小督塚があります。また野宮より北に五分ほど竹林の道を歩くと、二尊院があります。
 ここの厭離庵には、時雨亭と呼ばれる建物があり、謡曲『定家』の中で謡われるものと同名の、定家ゆかりの場所です。またその隣は、一度は清盛の寵愛を受けながら後に疎まれた白拍子達、祗王・祗女と仏御前達が眠る、祗王寺です。

 嵯峨野を後にしようとした時、路傍の家の前栽に咲き乱れていたのは、紫式部と嵯峨菊でした。まるで、「私達はやっぱり良い取り合わせでしょう」とでも言いたげに。


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