西行櫻
(さいぎょうざくら)

 西行法師は、もともと鳥羽上皇の北面の武士であり、本名を佐藤義清と言います。彼は代代武勇の誉れ高い家に生まれ、左兵衛尉に任ぜられました。
 ところが、二十三歳の時に突然出家し、以後は高野や吉野に遁世しつつ、度々陸奥に至るまでの旅を繰り返して、花を愛で、月に感じて歌を詠む日々を過ごしました。
 西行がなぜ突然出家を思い立ったか、未だ謎のままです。
 一説には、当時流行していた無常思想によるものだと言うものもありますが、それも推測に過ぎません。

 ともあれ西行は、藤原氏を始めとする貴族が力を失い、同じ武家である平家が政権を握り、そして滅び、源氏が再び台頭し、奥州に栄えた藤原氏がそれによって滅ぼされた「盛者必衰の理」をすべてその目で見て、文治六年二月十六日、「願わくは、花の下にて春死なん、その如月の望月の頃」とかねてより望んだように、河内・葛城山の麓の山里で静かに最後を終えました。

 西行の『現世に欲を覚えず、旅をそして自然を愛し、静かに去る』という生き方は、松尾芭蕉を始め、後世の多くの人々に影響を与えました。それは歌人文人に留まらず、広く私達日本人の心全てに行き渡ったのではないでしょうか。何故なら私達は今でも西行の歌に、また芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」に共感を覚えるのですから…

 が、反面私などは天邪鬼なのでしょうか?

 突然出家を思い立った西行には、妻子がありました。「その責任は?」と考えてしまいます。彼の美しい生き方の背後には、突然放り出された家族の驚愕・悲しみが隠されているのではないでしょうか。
 もしそれで西行が淡々と美しく暮らしていたなら、西行など大嫌いになるところです。しかし、謡曲『西行櫻』に登場する西行は、孤高の歌人でない横顔を我々に見せてくれます。

 西行は、自分の暮らす庵の桜の見事さに、都より人がたくさん訪れるのを、平たく言えばお前のせいだと当っているのです。それも桜の木に向って…それを当の桜に諌められ、反省して読むのが「花見んと、群れつつ人のくるのみぞ、あたら桜の咎にはありける

謡では非常に美しく書かれていますが、どう言葉を飾っても、これは余り大人気のある行動とは思えませんよね。
 けれども『西行櫻』では、今まで近寄りがたかった西行の人間くさい面が感じられ、嬉しくなります。

 この話の舞台となったのは、京都、大原野にある勝持寺、別名『花の寺』で知られるお寺です。西行は、ここで出家し、庵を結んでいたと言います。その時のエピソードが、この『西行櫻』だと言われています。

 京都洛南・大原野に、勝持寺はあります。ここまでやって来ると、周囲はのどかな田園の風景となり、西行がここに隠れて住もうとした名残も感じられます。

 バス停を降りて、山に向って緩やかな坂道を登って行くと勝持寺の入り口に着きます。

 ここを越えてさらに行くと、急な階段の上に寺最古の建造物である仁王門が見えてきます。
 門をくぐると、今度は胸を突くような急坂になります。切り通しになった、両側竹林のそこを十分も歩いたでしょうか。

 周囲が明るくなり、眺望が開けます。勝持寺はもうすぐそこです。

 最後の石段は、左手が白壁に沿って続き、目前に小さな門が見えてきます。壁の向こうからは、桜が枝を突き出して、「これが花の盛りなら、どんなにか美しいだろうなあ」と、期待を持たせるような、憎い演出の入り口です。

 それにしてもこの景色、いつかどこかでみたことのあるような…

 そう、何年か前の、JR東海の春のCM「そうだ 京都 行こう。」

 その撮影にも使われているのです。






 門をくぐり境内に入ると、そこは一面桜の林が広がります。そして鐘楼のそばに、西行の桜が植えられていました。

 毎日こんなに桜を一人占めにしていたとは、出家してもなんと風流な暮らしではないでしょうか。こんな所に暮らしていたら、それは皆うらやましくてやって来るでしょう。

 花の下に、違う時間の流れているような、そんなお寺でありました。


 花の寺・勝持寺の桜の見頃は、今年は四月の第二週だそうです。

 京都から、阪急・東向日下車、阪急バスに乗りかえて南春日町下車、徒歩1キロ。

 朝九時から拝観できます。ちょっと早起きして、西行の在りし日を偲んではいかがでしょうか。


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