蝉 丸
(せみまる)

 謡曲『蝉丸』が能であると感じる第一の理由に、この題名があります。『蝉丸』とつけながら、その実シテは姉の逆髪。伝説上の歌人であり、百人一首にも選ばれた、有名な歌詠みの琵琶法師はツレとして脇役の座に置き、架空の人物である逆髪をあえて、シテとして登場させる…直接的な表現を嫌った、能らしい題名ですが、そうは言っても架空の人物を題材にする事は、世阿弥でないただびとの私には難しく、素直に蝉丸を追いかけてみたいと思います。

 蝉丸と言えば百人一首、百人一首と言えば坊主めくりと、大変短絡的で申し訳ないのですが、百人一首の蝉丸の札は大変印象が強いらしくて、かなりたくさんの方が、あぁ、あの歌!「これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」と覚えていらっしゃいます。
 この蝉丸、能では延喜の帝の第四皇子となっていますが、実際は新古今和歌集を始めとする歌選集に数首の歌を残すのみの、伝説的な歌人であり、詳しい伝記は何も分かっていません。
 しかし今昔物語の、巻第二十四の第二十三話に「
源博雅朝臣、会坂(あふさか)の盲(めしひ)の許に行く語」という話が載っていて、これが蝉丸伝説と呼ばれ、謡曲『蝉丸』の素材にもなっています。まずはここからご紹介しましょう。

 今は昔、村上天皇の御代に源博雅という人がいた。この人は醍醐天皇の皇子・克明親王の子であり、大変管弦に優れた人であった。

 同じ頃、逢坂の関に蝉丸という一人の盲が庵を結んでいた。これは、宇多法王の皇子・敦実親王の雑色(ぞうしき)であったが、琵琶の名手である親王の音色を常日頃聞いていたことによって、自らも琵琶の名手になったのである。

 さて、博雅は音楽の道を非常に好んだので、一度この盲の琵琶を聞きたいと思い、人伝に「何故そのような場所に住んでいるのか。都に出て住んだらどうか」と尋ねさせると、蝉丸は、

  世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてし無ければ
(この世は無常な所ですよ、どこに住んでも同じこと)と歌で返した。

 これを聞いた博雅は、「あの者の命もいつまでのものか、また私とて同じことである。琵琶の曲に、流泉・啄木という、今ではただ蝉丸のみが知っている秘曲がある。これはいかにしても聞いてやろう。」と、いても立ってもいられず、この夜より毎晩、逢坂の関にある蝉丸の庵に通った。

 しかし、蝉丸はなかなかこの秘曲を弾くことがなく、月日が流れた。そして、三年目の8月日、月は朧に、風も少し強く吹き、今宵こそは興も乗ろうと博雅が出かけて行くと、果たして盲は琵琶をかき鳴らし、感興ありげなさまである。その内

  逢坂の関の嵐のはげしきに強ひてぞゐたる夜を過ごすとて

と詠んで、ひとしきり琵琶をかき鳴らした。博雅はこれを聞き、感激すること限りなかった。

 盲が独り呟くことには、「興のある夜だことよ。今宵誰か芸道を心得たものが来たならば、物語しようものを。」そこで博雅は名乗りをあげ、この三年間庵に通ったと告げた。
 すると蝉丸は喜んで、博雅を庵内にうち入れて物語などするうちに、博雅は「流泉・啄木の曲を聞きたい。」と所望した。盲は、「亡き親王はこのように弾かれたものでした。」と言って、博雅に件の奏法を伝えたが、この夜博雅は琵琶を携えていなかったので、ただ口伝によってこれを習ったのである。博雅は大いに満足して都へと帰って行った。

 この話より思うに、諸々の道はこのようにひたすら好むべきである。今の世はそうでないので、諸道に達者がいないのだが、誠に嘆かわしい事だ。
 蝉丸は、賤しい者であるが長年親王の琵琶を聞き、このように道を極めた上手になったのであるが、盲目となったので逢坂山に移り住んだのである。この時以後、盲が琵琶を弾くことが世に始まったと語り伝えられている…

 私は古典研究の専門家ではないので、下手な訳で申し訳ございませんが、これが今昔物語の中の蝉丸伝説です。謡曲の『蝉丸』とは、大分内容が違いますね。
 芸の道とは、このように昔から「今は名人がいない、嘆かわしい事だ」と戒めつづけられているもので、今舞台に出ている方々も、皆さん、ご苦労の多い道です。けれどもピラミッドの壁だったか、古文書だったかに、「今時の若い者はいかん。」と書かれた四千年前の文章があるそうですから、このような感慨は古今東西・万国共通なのかもしれませんね。

 ともあれ、この今昔物語。天竺・震旦・本朝と三部に別れた説話集です。今昔物語に収められた話を元に作られた謡曲も『蝉丸』だけでなく、例えば『一角千人』等があります。
 この説話集の話は必ず「今は昔…」と始まるので、今昔物語集と呼ばれています。お時間があったら、是非手にとってみて下さい。「花伝書」や「大鏡」とは違い、大変読みやすい古典です。

 さて、謡曲『蝉丸』に戻りましょう。ホームページを御覧の方には、すでにご存知かと思いますが、今回の定例会より、お囃子方に演目について語って頂いております。第一回は大鼓の柿原弘和さんにお願いしたのですが、『蝉丸』の中で一番好きなのは、という質問に、二回目の道行「花の都を立ち出でて」の部分というお返事を頂きました。悲劇も悲劇のこの曲の中で、唯一何か明るさの感じられる所だからと仰っていましたが、今回の私の旅でも、この坂髪の行く道筋どおりに、逢坂の関へと参りました。

 まずは「憂き音に鳴くか賀茂川」です。シテの逆髪は、鴨川の辺からその苦しい旅を始めます。室町時代の京の都は、鴨川を越えるとさびれてしまったといいます。もう少し下がって五条にあった融の大臣の河原の院跡は、紫式部の時代すでに荒廃しきっていたと言うのですから気持ちの良い場所ではなかったでしょう。山科を越えて近江の国へと行くには、ここから白川沿いに粟田口へと歩いて行きます。

 京都の玄関・粟田口は、京都と各地を結ぶ交通の要所です。粟田神社はこの地にあって、古来より旅人の信仰を集めてきました。
 その創建は大変古く、様々な謂れがあるそうです。先の挨拶の中でも触れましたが、この粟田神社には江戸時代の能舞台がありました。
 三条通から一本入ると、境内へと坂道が続きます。残暑の木漏れ日を浴びながら、その石段を登っていくと、誰もいない閑とした境内に、忘れ去られたようにその舞台は立っていました。
 知らない場所で知った顔に会ったかのように嬉しく、宮司さんに尋ねると、江戸時代に建てたらしいとの答え。舞台横のお堂の天井には、ここの舞台で演じられた番組が、額になって奉納されていました。そしてその中にも『蝉丸』の字が…
 やはりここでも『蝉丸』を演じたのだ、粟田口と聞いてここに来たのは間違いでなかったと偶然の出会いにすっかり気分が良くなって、次の松阪を目指しました。

 粟田神社には、末社に鍛冶社という小さなお稲荷さんがあって、三条小鍛冶宗近の相槌を打った雪丸稲荷明神が祭られています。これも謡曲『小鍛冶』の題材ですが、今日はちょっとだけお参りして通りすぎる事としました。

 けれども、粟田口までの幸運も松阪探しには役に立たなかったと見えます。「今は誰をか松阪や」の地は見つける事がどうしても出来ません。仕方なくなるべく旧道を通るようにして、山科へと道を続ける事にしました。
 三条通は大きく右へカーブして、清水寺のある音羽山を回りこむように山科へと抜けます。ほんの年くらい前まで、山科はまだまだ田舎という感じだったそうですが、いまでは地下鉄も開通し、京都市のベッドタウンとなり、昔の面影はどんどん無くなってしまっているそうです。
 それでも旧道を通りますと、そこかしこに、黒板塀や格子窓、垣根には夕顔の花の咲いたお家が点在していました。逢坂に行くにはここ山科で京阪の京津線に乗り換えです。

 県庁所在地をつなぐ線なのに、二両編成の、駅は改札無しといった、まことにのんびりした電車で山科から四つ目、大谷に蝉丸縁の蝉丸神社があります。神社の前は旧東海道。
 降りしきる蝉時雨の中を、かなりきつい石段を上がると、舞楽殿を真中に置いた神社が、蝉丸が庵を結んだ跡と言われる、この神社です。
 しかし実は逢坂の関近くに、蝉丸神社と呼ばれるものは全部で3軒もあるのです。この蝉丸神社が最も京都よりで、関跡にも近いものです。私が尋ねた時、氏子さん代表の3人が、ちょうど草むしりに勤しんでおられました。
 ここの神社は、鳥居をくぐると本殿の前に舞楽殿が大きく建てられています。氏子のおじさんが、自分のお父さんが載っていると言って指差した先にも、奉納の額がありました。そして、「素謡『蝉丸』」の文字も…
「ついこの間も、あれはいつやったかなぁ、隣に掛かってる額にあるやろ。ここを見に来はって、ここでお謡をしたことがあってな。わたしらも聞かせてもろて。」汗をぬぐいつつ、にこにこと話してくれるその顔には、謡の故郷が生活にしっかりと根付いている様子が伺えました。

 草いきれでむんむんとする蝉丸神社を後に、ここからは少しの距離ですが、東海自然歩道を歩いて逢坂山に向います。
 この歩道をずっと歩いて行くと清水寺のある、音羽山に出るそうですが、その道のすごいこと。本当に人間の歩く分だけしか幅がなく、そう深くはありませんが横は崖になっていて、手すりも何もないのです。
 20メートルも行かない所に国道が通っていて、車のうなりはひっきりなしに聞えるのに、一歩踏みこんだ道はといえば、蝉丸や逆髪が歩いた頃とあまり変わっていないようで、何度も蜘蛛の巣にかかった挙句、逢坂山はあきらめて国道におり、関蝉丸神社へと向かう事にしました。

 逢坂の関は古代、武内宿弥(たけしのうちすくね)と忍熊王(おしくまおう)の軍勢が出会ったことから、その名がついたそうです。
 ここから近江国に向っても、山城国に向っても下り坂になっていて、何百年の昔には本当に要所であっただろうと推測されるような場所です。今でも国道1号と、国の経済の大動脈として、トラックがうなりを上げて走って行きます。

 関から数百メートルで、関蝉丸神社・上社、そこから1キロ程度歩くと関蝉丸神社・下社の二つの神社があります。上社は国道沿い、下社は関清水の街中です。ここでも蝉丸が祀られ、毎年春にはお祭りが行われるそうです。
 地元の方によると、「さみし〜い、お祭り」だそうですが…しかし、上下とも大きな舞楽殿が境内の真中に置かれていたのは、蝉丸神社と変わらず、伝説の歌人・琵琶の名手を祀るにふさわしいものに感じられます。
 特に上社には草が生い茂りなんの手入れもなされていない様子が、まるで蝉丸の庵を尋ねた博雅の三位になった心持ちで、思わず耳を澄ませて琵琶の音を探してしまいそうでした。

 下社の格子には、伝説の歌人・蝉丸の神社にふさわしく、芸事の上達を祈願した絵馬が多く上がっていました。私も皆さんを代表して一枚奉納してきましたので、今日の九皐会は、蝉丸さんのご加護があるに違いありません。乞う、ご期待です。


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