田 村
(たむら)

 謡曲『田村』の舞台は言わずと知れた京都の清水寺ですが、こちらは他にも『熊野』・『盛久』の舞台としても知られています。また、『融』の曲中、有名な名所教えも、六条河原の院から音羽山、つまり清水寺の方に向っての景色を謡いますので、『田村』の名所教えの箇所も、皆さんよく聞き覚えのあるものとして馴染み深いのではないでしょうか。

 清水寺と言えば「清水の舞台」、「音羽の滝」、「ご本尊の十一面観音像」、「子安の塔」、そして最近では寺領内にある地主神社が、「縁結びの神様」としてもてはやされるなど名所に事欠きませんが、このお寺と蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂が深い関係にあることは、一般にはあまり知られていないようです。この田村麻呂、一体どのような人物なのでしょうか。

 坂上田村麻呂の生きた時代とは、奈良末期から平安にかけて。時の天皇である桓武帝は、大規模な国土統一と遷都を睨んだ政治を行っていました。その頃の事は「日本後期」という書物に詳しいのですが、残念なことにこの書物は散逸してしまった部分が多く、田村麻呂に関しての記述は、「薨伝」と呼ばれる追悼文が残っているのみです。
 これは、正三位以上の高官が亡くなった時に国家の正史に記録される追悼文で、その人物の人柄と業績を忍んで書かれるものです。また田村麻呂の没後、嵯峨天皇の時代に書かれたという「坂上田村麻呂伝記」が「群書類従」の中に残されていて、ここには田村麻呂についてもう少し詳しい描写がされています。この伝記を紐解きつつ、田村麻呂の生きた時代をご案内しましょう。

大納言坂上大宿禰田邑麻呂者。出自前漢高祖皇帝。

廿八代至後漢光武帝。十九代孫考霊皇帝。十三代阿智王。率一縣同姓百人。十三代阿智王。率一縣同姓百人。出漢朝入本朝。応神天皇二十六年也。 有勅。給大和國檜前地居之。 一名英智王。

 大納言坂上田村麻呂の出自は前漢の高祖に遡る。二十八代前は後漢の光武帝、十九代前は考霊帝。また十三代前の阿智王は、一族百人を率いて大和に渡って来た。時は応神天皇二六年の御代だった。勅命により、大和国檜前の地に居を構えることになる。一名を英知王と言った

阿智王十一代孫贈大納言勲二等苅田丸の二男也。

宝亀十一年将監。

 
阿智王の
十一代の子孫に、大納言・勳二等を贈られた刈田丸という人がいて、それが田村麻呂の父親です。刈田丸は、宝亀元年(770年)、陸奥鎮守将軍となって陸奥の多賀城に赴任しています。
 恐らく田村麻呂もこれに同行したのでしょうし、それが後年の蝦夷征伐に大いに役立ったのではないでしょうか。宝亀十一年
(780年)、田村麻呂は右近府の将監に任じられます。

 この四年後父の刈田麻呂は死亡。遷都事業に手をつけた桓武天皇は、次は蝦夷征伐と、延暦8年(789年)奥州に大軍を送りますが、これは蝦夷の首領アテルイに大敗を喫します。
 しかしこんなことで諦める桓武天皇ではありません。翌々年の延暦十年、田村麻呂を蝦夷征伐準備のため、東海道諸国に派遣します。

 同じ年の七月、いよいよ討伐軍十万が派遣されます。この時は副使として軍に加わった田村麻呂ですが、延暦十三年、首級457個を挙げるという大勝利をおさめます。

延暦十四年征夷将軍正四位下近衛中将越後守。同年二月兼木工頭。

 十三年の功績により、田村麻呂は順調に階位を上げ、陸奥出按察使・陸奥守、そして延暦十六年にはついに征夷大将軍に任じられます。

同二十年十一月叙従三位。同二十二年二月任刑部郷。同二十三年正月補陸奥出羽按察使。同二十四年任参議。弘仁元年(大同元年?)叙正三位。任中納言。同年九月任大納言。同二年五月二十三日薨。干時年五十四。

 延暦二〇年、いよいよ第三次征夷作戦が始まります。田村麻呂の戦果は目覚しく秋には従三位を授けられ、翌二一年には、長い間朝廷の征夷作戦に抵抗して来た蝦夷の首領・アテルイも投降してきました。
 その後田村麻呂が征服した朝廷の勢力範囲は現在の岩手県にまで広がり、最終目標として津軽攻略までの目的ができました。弘仁元年(
八一〇年)には大納言に任じられ、藤原薬子の乱では鎮圧軍の指揮も任じられました。そして弘仁二年五月二十三日、平安京郊外の粟田別業で死去しました。享年54歳でした。

栢原天皇第八皇子葛井親王者。

大納言女従四位下春子女御之所生也。仍殊加賜之。

天皇不視事事一日。同五月二十七日大舎人頭従四位下藤原朝臣縵麻呂。治部少輔従五位下秋篠朝臣全継。就大納言第読贈従二位宣命。同二十七日葬於山城國宇治郡栗栖村。干時有勅。調一備甲冑兵仗劔鉾弓箭糒監令合葬。向城東立柩。即勅監臨行事。

 田村麻呂の娘の一人は、桓武帝の后であり、葛井親王の母であるため、御賜品が加増されました。そして田村麻呂死去の訃報を聞いた天皇は、一日喪に服し、その後彼に従二位の宣命を賜り、山城国宇治郡栗栖村水陸田三町を墓地として下賜しました。

 田村麻呂の墓には、武人らしく甲冑、兵仗、劒、鉾、弓矢などが合葬されたそうです。

其後若可有国家非常事。則件塚墓苑如打鼓或如雷電。

爾来蒙将軍号而向凶徒時先詣此墓。誓祈。

 坂上田村麻呂の死後、国家に非常事態の起きる事がある時は、この墓はあたかも鼓を打つが如く、また雷電の如く鳴動し、危急を告げると「田村麻呂伝記」は伝えています。
 また士たるもの、将軍の位階を授かって兇徒に向う時にはまずこの墓に詣で、勝利を祈願し無事の帰還を祈る慣しとなったそうです。

大将軍身長五尺八寸。胸厚一尺二寸。向以視之如偃。 山科区勧修寺東栗栖野町

背以視之如俯。目写蒼鷹之眸。鬢繋黄金之楼。

重則二百一斤。軽則六十四斤。

「田村麻呂伝記」では、ここから坂上田村麻呂の生前の様子を伝えます。坂上田村麻呂は身長が五尺八寸。センチメートルに換算すると約174センチで、胸板が36センチもあったというのですから当時としては大変な大男だったでしょう。
 大変堂々とした威丈夫で、その眼は白い鷹に似、鬢の毛は黄金の糸を紡いだように光っている。体重の重い時は201斤、軽い時は64
斤でその軽重は思いのままであったというから、これは大変羨ましい話ではありませんか。

動静合機。軽重任意。怒而廻眼。猛獣忽斃。咲而舒眉。 稚子早懐。丹款顕面。桃花不春而常紅。勁節持性。松色送冬而獨翠。

 その行動は機に応じて機敏であり、臨機応変な頭の持ち主だったそうです。怒ると猛獣も忽ち恐れをなすほどの勇猛さでしたが、笑うと幼子もすぐに懐くほどのやさしい笑顔の持ち主でもあり、真心に溢れ、強い意思の持ち主だったと伝えられています。

運策於帷帳之中。決勝於千里之外。武芸称代。勇身踰人。辺塞閃武。

華夏学文。張将軍之武略。当案轡於前駈。簫相國之奇謀。宜執鞭於後乗。

 力ばかりでなく謀にも優れ、辺境に会ってその武は花開きました。田村麻呂の智謀と武力は張良にも、簫何にも引けを取るものではないと讃美して伝記は記述を終えています。

 田村麻呂は、彼が制圧した東北地方でも色々な所で奉られていて、田村麻呂が建立したと言われる寺社は福島県・宮城県・岩手県の三県で信憑性の比較的高い所で一〇六社もあり、田村麻呂が行ったはずのない山形・秋田・青森にまで広がっています。
 そしてどこへ行っても征服者であるはずの田村麻呂が英雄として気高く描かれています。正史というものは、時の権力者にとって都合のよい書き方をする事がほとんどですから、これも仕方のない事かもしれませんが…。
 この田村麻呂ですが彼は大変愛妻家であったようです。と言いますのも、田村麻呂が観音を信仰し、清水寺と深く関わるのも元はと言えば妻・高子の懐妊によるのだそうです。

 清水寺縁起によれば、この寺の開基は宝亀九年に遡ります。奈良の子島寺に住んでいた延鎮上人が、「木津川の北流に清泉を求めて行け」との霊夢を受け、泉を探しに山に分け入ると、深山幽谷の音羽山腹の滝の辺に辿りつきます。
 上人はそこで草庵を営み、永年修行中の行叡居士に出会い、一本の霊木を授かります。上人はその木で観世音菩薩のお像を彫り上げ、これを居士の旧庵にまつったのが清水寺の起りだと伝えられています。

 二年の歳月が流れ、宝亀年の夏、田村麻呂が妊娠中の妻のために鹿を求めようと音羽山にやって来ます。彼もまた清水に誘われ、延鎮上人の庵を訪ねることになりました。
 そして上人に、殺生をする非を諭され、殺した鹿を弔って下山し、妻に、上人に会い殺生の罪を諭され、清水と観音の霊験・功徳を説かれたことを伝え、二人揃って観世音菩薩にを信仰することになります。

 その後、延鎮上人は田村麻呂の征夷作戦の成功を祈願し、田村麻呂も観音の加護で夷敵を平らげ無事に都に帰還することが出来ました。感謝の印に、田村麻呂は本尊に詣で、さらに延鎮上人に協力して地蔵菩薩と毘沙門天を造り、ご本尊の観世音菩薩の両脇に具しました。
 また延暦年、仏殿を造り替えて奉納しました。このため清水寺には今でも坂上田村麻呂夫妻を奉った、開山堂(田村堂)が残り、行叡居士・延鎮上人と共に、清水寺を見守っているそうです。

 最後に、ご本尊の十一面四十二臂千手観音像ですが、普段はお厨子に入っていて拝見することが出来ません。ご開帳は33年ごとで、次のご開帳は二〇三三年の予定です。


menuに戻る

top