釆 女
(うねめ)

 近鉄奈良線の終点、近鉄奈良駅で降りて駅前の広い県庁通りを東に向って歩いて行くと、右手にすぐ興福寺が見えてまいります。興福寺は能とは大変関係の深いお寺で、もともと現在の能の四流派は、この興福寺のお抱えの劇団を起こりとしているのです。
 つい一昨日の五月十一日は、今全国各地で行われている薪能の起こりでもある、「興福寺薪御能」が南大門跡で行われました。観世喜之と喜正も行って、舞って来たばかりです。

 この興福寺の境内を南へ通り抜けると、周囲約360mの小さな池があります。これが猿沢の池であり、能『釆女』の話の舞台となります。

 猿沢の池はもともと興福寺の放生池でした。放生とは、仏教の不殺生の思想に基づいて、捕えられた小動物を山野や池沼に放つことであり、寺院では大抵その為の池を境内の中に持っているのです。猿沢の池もその一つなのです。この池は昔から「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙わかずに藻は生えず、魚七分に水三分」と七不思議が伝えられています。
 帝の愛を失った釆女が身を投げたのはこの猿沢の池であり、池の辺にはこれまた小さな社があり、こちらがその釆女を祀った釆女神社です。この釆女神社ですが、池のすぐ隣にあるにも関わらず、見つけるのに大変手間取ってしまいました。なぜならこのお社、小さいばかりでなく、池に向って後ろ向きに建てられているのです。

 それは、ここに祭られている釆女を可哀想に思って、身を投げた池が見えないようにとの配慮だそうです。なかなかジンと来る話ですね。

 「こんな浅そうな池でよく身投げが出来たな」と思って覗くと、今の池の主人公がひょっこり顔を出しました。亀です。猿沢の池には何十匹もの亀が住んで、今では名物になっています。
 毎年九月十二日、中秋の名月の夜にはこの池で、釆女を偲んで「釆女祭」が行われ、池には奈良時代のものを復元した船が浮かべられ、時代装束に身を包んだ釆女や舎人達が乗りこみます。
 これは大変美しく人気のあるお祭りだそうですが、私が訪れた四月の初めは、桜花が満開の時期にも関わらずのんびりと散歩やスケッチを楽しむ人がいたり、池の辺の草地では、今年生まれた子鹿を連れた母鹿が草を食み、奈良ならではの長閑な風景が広がっていました。

 興福寺と猿沢の池との間の道は、東に向って少し登り気味に続いています。ここを行くと奈良公園の中を通って春日神社の参道です。

 さて、肝心の物語の主人公である「釆女」ですが、一体「釆女」とは何でしょうか。今回は、その「釆女」というものについて少し調べてみました。

 政治や宮廷の制度など、ほとんどを中国から学んだ日本では、後宮の制度もやはり中国を手本にして制定していました。中国の古代王朝、例えば唐の后妃制度は、皇后一人、夫人は貴妃、淑妃、徳妃、賢妃の四人、昭儀以下の九嬪、 婦九人、美人九人、才人九人、宝林二七人、御女二七人そして釆女二七人。
 規模や内容が異なるとはいえ、釆女という身分が日本の朝廷において作られたのは、やはり中国の影響であったことは間違いが無いことと思われます。しかし、中国の釆女と日本の釆女とでは大分大きな違いがありました。

 古代中国の釆女は、後宮の最下層の身分であり、皇帝の室の一人です。日本の釆女達にも同じ性格はありますが、法律上で彼女達にはきちんと別の仕事が決められていました。それは天皇の食事の世話や、裁縫などをする者という決まりです。
 天皇の食事の世話をすると言うことは、その辺の人には任されない大事な役目です。一体どのような女性達が、いつ頃から、この釆女の役についたのでしょうか。

 大化の改新の詔によると、「およそ釆女は郡少領以上の姉妹及び子女の形容端正なるものを貢げ」とあり、有力な地方豪族の姉妹や娘で、容姿端麗な者が選ばれたのは間違いないようです。そしてそれぞれの釆女達の頭に地方名が付けられていることも、それを裏付けています。

 また釆女の起源は大変古く、いつ頃からあったものかははっきりとしませんが、五世紀の雄略期に、「日本書紀」や「古事記」の中にその記述が集中して見られる所から、雄略天皇の頃、制度として完全に確立したのだろうと考えられています。
 ただし釆女という制度は、先にも述べたとおり中国から輸入のものでしょうが、日本にもともとそのような役割の女人がいて、輸入された制度に乗っ取り釆女となったのか、それとも釆女そのものが全て中国からの輸入なのかは、まだ判断のつかないところだそうです。

 ではこの釆女の身分はどんなものであったでしょうか。「日本書紀」はこう記しています。雄略天皇がある名工の技に感心し、決して失敗することは無いのかと尋ねると、彼はどんなことがあっても失敗は無いと答えます。天皇はそれでは、と釆女達を呼び集め、「たふさぎ」つまり下着一枚で相撲を取らせたところ、それに気を取られて失敗してしまい、その匠は殺されてしまいました。

 また「古事記」には、三重釆女という釆女の悲壮な歌が残されています。初瀬で雄略天皇が催した宴の最中、天皇の盃に落ち葉が舞い落ちてしまいました。三重釆女はそれに気づかず、そのことに激怒した天皇はこの釆女を斬ろうとします。
 その時彼女が「吾が身をな斬りたまいそ。申すべきこと有り」と言い天皇を讃える歌を読み上げます。

 この二つの故事から伺える釆女とは、天皇の気持ち次第でどうにでもされる、大変気の毒な身の上です。雄略天皇は勇猛で知られた天皇であり、その治世は大変勢力的に大和朝廷の中央集権化が進んだ時代でもあります。その時代背景と釆女の出身が地方豪族の姉妹や子女であることから鑑みると、釆女というのは大和朝廷に恭順を誓った豪族達の、中央への人質であることが推測されます。

 勿論この説には異論があり、その最たるものは、「釆女は人質ではなく、天皇の側に仕える巫女である」というものですが、様々な重要事項を左右する神託を宣告する巫女を、上の記述のように軽々しく扱えるでしょうか。そう考えると、釆女はやはり人身御供であるとする方が理に適っているようです。

 けれども釆女が単なる人質であるというと、その解釈にも問題が出てきます。古代では卑弥呼の例に見られるように、巫女の神託によって、その弟が国を治めるという形が良く見られます。
 国ごとの祭祀権を巫女ごと中央に没収すれば、大和朝廷の中央集権化もより一層早められたに違いありません。また釆女の出身を「豪族の姉妹」としているところにも、その根拠が伺えます。

 釆女と関係を持ったものが厳罰を加えられたというのも、釆女の神妻としての資格が大きく関係してくるのでしょう。

 このことは釆女の装束からも推測できます。釆女は必ずその肩に肩巾‐ひれ‐をまとうことが決められていました。肩巾は領巾とも記され、肩掛けのような物です。
 この肩巾は霊力を持つと考えられ、呪物の一つでもありました。形は今日のマフラーとほぼ同じで一端が左膝上まで垂れています。布地としては下に着ている袍が透けて見えるような羅や紗が多かったそうです。
 時代が下るに連れて段々と本来の意味が薄れ、単に装飾用のものとなっていきますが、釆女の制度が確立した頃までは、本来の呪力を持つ道具としての意味も大きかったに違いありません。
 また釆女は朝廷の大きな祭りである、新嘗の儀に奉仕する役目も持っていました。しかしながら、釆女の巫女としての性格は、時代とともにどんどん消滅していきます。

 さて能の『釆女』は、帝の愛を失った釆女が、世を儚んで猿沢の池に身を投げるという話を元に作られた話ですが、これも釆女というものを理解する上で重要なファクターを含んでいます。

 釆女はなぜ身を投げなければならなかったのでしょうか…先ほど釆女と関係を持ったものが厳罰を与えられると書きましたが、そのことは時代が降って釆女の持つ巫女的な性格が薄れてしまってからも続くのです。
 なぜでしょうか。それは釆女が天皇の所有物であり、また豪族が天皇への服属の証しとして貢上したものでもあるので、その権威の象徴でもあるからなのです。

 釆女が天皇の子を産むと、宮人‐めしおんな‐として、天皇の後宮の一員に加えられます。しかしそうでなければあくまで天皇の食事の世話という、宮中の公的な仕事を担うことしか出来ません。
 つまり釆女は天皇の私物であり、関係を持つのも天皇だけに限られているのです。「容姿端正な者」しか釆女にはなれないのですから、釆女は美人ぞろいです。しかし天皇以外の人にとっては、釆女は高嶺の花で、恋を語ることは許されないのです。

 また天皇の愛を受けても子を生めなければ、釆女の身分はそのままです。そして釆女に定年退職はありませんから、懐かしい故郷に帰ることもままなりません。天皇に飽きられ、また子も成さなければ、そのまま宮中で老いていくしか残された道はないのです。
 能に登場する釆女がその身を嘆いて自殺してしまったのは無理もないことでしょう。

 釆女が高嶺の花であることは、万葉集の藤原鎌足の歌によく表れています。

鎌足は長年の忠誠への褒賞として、天智天皇から安見児‐やすみこ‐という釆女を贈られます。この時その喜びを歌った歌が、

「われはもや安見児得たり皆人 得難にすとふ安見児得たり」

という歌です。けれどもここには多少作為があったような気がしなくもありません。
 と、言いますのも、時は天智天皇御代です。天智は大海人皇子という皇太子の弟がいますが、伊賀宅子の生んだ大友皇子を寵愛し、この皇子に位を譲りたく思って、それが後の壬申の乱の原因になるのですが、この伊賀宅子という夫人が実は釆女出身なのです。
 この時代、天皇の位につくには、母后の身分が問題となります。大海人の母は、天智と同じ斎明女帝ですから、母の身分が釆女と低い大友にとっては大変なライヴァルです。
 天智天皇は自身が中大兄皇子であった頃からの腹心の鎌足に、高嶺の花の安見児を与え、満座の中で鎌足に大げさにその喜びを歌わせることで、中央貴族の娘である夫人達の蔑視を受けていた、釆女の地位を高めようと画策したのかもしれません。

 しかし結局、大友皇子は権力争いに敗れ、この後釆女の地位はどんどんと低くなり、ついには天皇の子を産んでも、宮人になることすらなくなってしまいます。そして平城京下の養老律令では、ついには無位の女雑役人となってしまうのです。

 平安朝に入ると、釆女は女房の蔭に隠れて、ますます影の薄い存在となってしまいます。ごくたまに、「枕草子」の「唐めきてをかし」などに昔日の華やかな面影がふと匂いますがそれまでです。

 この後も釆女は、鎌倉、室町を越え、そして江戸時代まで官職として残りますが、宮廷貴族のあこがれとして、歌に詠まれたような華やかさは失われ、忘れられた存在となってしまうのです。

「釆女の袖吹き返す明日香風 都を遠みいたづらに吹く」志貴皇子・万葉集

参考文献「釆女」門脇貞二著、「古代王朝の女性」暁教育図書刊


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