雲 林 院
(うんりんいん)

 謡曲『雲林院』の舞台は、京都・大徳寺の塔頭である臨済宗の寺となって今に残っています。今回のうのう便りでは、この雲林院のお住職でいらっしゃる、藤田寛蹊様にご協力頂き、雲林院の由来などについて伺ってまいりました。

 まずは、雲林院の由来からお聞きします。

雲林院と言うのは、創建は大体九〇〇年前後頃ですね。はっきりとした年代は分からないんですがね。淳和天皇の離宮って言いますけれども、この淳和天皇の塔所‐たっしょ‐墓所ですね。というのは、京都の西大路四条に高大院ていうお寺があるんです。確か高大院やったと思うんですけど、そこに淳和天皇の宮があったと言われるんですね。その離宮として、雲林院が創建されたというのが最初です。それが代々の天皇家ですね、淳和・仁明というふうに天皇家に譲り渡されていくわけです。その過程で最初は天皇の離宮、休む所、つまり別荘ですね。ここら辺は桜の名所、紅葉の名所というような感じで昔から歌にも多く詠まれていたんですね。

 もとの雲林院と言うのは、このお寺のあるところとちょっと離れているんですね。(注 現在の堀川通りに面した場所)100mくらいの所に今、新しいマンションが建っていますけれども、そこに発掘調査がありまして、その場所が、雲林院の客殿があった場所やと言う結果が出たんですね。そこからは、井戸とか柱の跡とか土器とか、平安時代のものがずいぶん出土したんですよ。

 少々本からの補足を入れさせていただきますと、雲林院は最初、紫野院と呼ばれていたそうです。そして淳和天皇の御世である天長九年に、天皇の御幸を頂き、それを機に雲林亭と改名したと、『類聚国史』に現されています。
 雲林亭は、仁明天皇の代に、その皇子である常康親王に伝領され、雲林院と呼ばれるようになり、親王の出家に伴って仏寺となったそうです。そして、親王の死後、六歌仙の一人として有名な僧正遍昭に付属され、天台宗寺院として隆盛しました。

 雲林院の隆盛は平安後期に成立の『大鏡』にも明らかです。と、言うのも『大鏡』は、世継翁と夏山繁樹が思い出話をする形で物語が進行するのですが、この二人の話のきっかけは、雲林院の菩提講に来合わせた所から始まるのです。では、菩提講とは何でしょうか。お住職に伺ってみましょう。

平安時代に、平安文化の中心であった『大鏡』という書物にありますけれども、そのときに雲林院の菩提講、菩提講と言うのは、観世音菩薩信仰の、来世に極楽浄土に生まれる為に法華経を唱えて、皆で集まる、一つの宗教行事ですね。そういう法要があったわけです。雲林院ではこれが盛んで、また有名であったわけですね。それで、この菩提講という名前の発祥とでも言いましょうか。そういう名前がつけられたのは、雲林院が最初だと言いましょうか。そう聞いております。

 なるほど。今でこそ小さなお寺になってしまっていますが、平安時代に雲林院と聞けば、誰でも知っている有名な、大きなお寺だったのですね。どのくらい大きなお寺だったのかとお伺いしますと、発掘調査が行われたときの見取り図を見せて説明してくださいました。

敷地の一辺が、300m、もっとあるかもしれないですね。こういう釣殿やら池やらある屋敷が建ってた訳ですから。この辺は今でも雲林院町と呼ばれているんですけれども、こちら、大徳寺がある大徳寺町ですが、ここも雲林院の管理地だったのを、開山の大燈国師が譲り受けたのですから、大分広かったんでしょうね。

 では往時は隆盛を誇った雲林院が、なぜその後人々に忘れ去られていったのでしょうか。そして天台宗であった寺院が、禅宗の一派である臨済宗大徳寺の子院となったのでしょうか。

順番に行きますと、雲林院はもとは天皇家の離宮、その次に天台宗の寺院、その後に禅宗の臨済宗に変わったんですね。天台宗と言うのは、僧正遍昭を得た時に元慶寺の子院になって、お寺の機能をはじめた訳ですね。この当時、雲林院の寺域は大変広かったんですが、今の大徳寺と同じように、雲林院と言う一つのお寺の中に、塔頭がたくさんあったようですね。その一つが「白毫院」と言って、先ほど発掘調査の話が出た客殿跡の並び、堀川通りに面したところなんですが、小野篁や紫式部のお墓があります。」

 僧正遍昭とも関係があるんですね。

遍昭もそうですし、西行とも関係がありますね。時々お寺に訪ねてこられる方で、『ここに西行の植えた桜はまだ残っていますか』と聞かれる方もありますけど、桜はありますけれど、西行が植えたものではないでしょうね。

 このお寺は、歴史はとても古いんですが、必ずしも順風満帆に発展していった訳ではないんです。時代の流れもあるんでしょうが、結局は庇護が必要なんですね。ここのお寺と言うのは、実際問題それがなかったですから、時代が降るに連れて大変荒れ果ててしまっていたんですね。

 大徳寺は一三一五年、宗峯妙超(大燈国師)が、花園天皇から雲林院の土地を賜わったのですね。これは古文書にも出ています。恐らく雲林院もその時に、自然に大燈国師に引き継がれたのだろうと私は推測しています。というのも、古文書とか、そういった書き付けは一切残っていないので分からないんですね。焼けたのかどうしたのか、とにかく雲林院に関したものは一切ないので、平安時代の源氏物語とか大鏡などからの推測しかないんですよ。

 荒れてはいたけれども、応仁の乱の頃までは建物も残っていたようで、大徳寺の弧蓬庵という塔頭がありますね、そこの客殿に金の松の屏風があるんですが、それは雲林院の元の客殿のものを持っていったと言われています。それは記録にちゃんと残っています。ここからは推測なんですが、襖だけ持って行っているんじゃなくて、雲林院の当時あった建物をそのまま弧蓬庵に移築したんちゃうかと言われていますけどね。襖絵に関しては、大徳寺の古文書に残っていますから間違いないんですけどもね。

 ここは住職が居なかった時期というのが相当長いですから。ここのお寺を再興したのが一七〇六年ですね。それまではずっと無住だったわけですね。

 それが、江戸時代ですね、二九一世の江西宗寛和尚という方が、『大徳寺発祥の場である雲林院を放っておくのは良くない』ということで、観音堂を再建し、また大徳寺開山の大燈国師の像を、写しですが雲林院に下さいまして、そこでやっと再興されたわけです。が、その時も、江西和尚も再建はされましたけれども、兼務住職と言う形でまた別にお寺を持っておられましたんでね、ここにちゃんと住職と言う形でいらっしゃたかということは分からないんです。

 その後は、四代までは住職が居たんですが、その後はまた無住になってしまいまして…そのまま明治、大正、昭和と来て、今のような形で庫裏が出来てここに住職が住むようになったんは、戦後ですね。私の親父が最初で、私が二代目です。

 この無住の間に雲林院と観音堂が持ちこたえてきたのは、本当に地域の皆様のお蔭ですね。信仰が廃れなかったんでしょうか。このお寺のご本尊は、十一面千手観音ですが、これもいつ作られたか分からないのです。菩提講の信仰があって、これはもちろん観世音菩薩信仰です。その関係でおそらく江西和尚は、ひとつちゃんとした仏さんを奉っておこうということで、観世音菩薩を作られたのかもしれませんが、詳しい年代は分からないし、まぁただ、300年は経っているのは間違いはないですね。この辺では、このお寺は雲林院ではなくて、「観音さん」と言った方が有名です。ご近所の方に守られて続いてきたんですね。

 さて、僧正遍昭や紫式部、また西行法師などにも所縁の深い雲林院なのですが、謡曲では『伊勢物語』の在原業平が登場する舞台となっています。在原業平とも何か関係があるのでしょうか、と伺うと、お住職さんは笑って伊勢物語や業平と関係があるとは聞いたことがないと答えました。
 おそらくこれは、能の作者の作ったフィクションなのでしょう。ですがなかなか意味深長な舞台設定ではないかと思うのは私だけでしょうか。

 と、言うのも、業平は二条の后に恋をしたことによって東国へ降ることを余儀なくされ、伊勢物語の話もそこに多くをさいています。臣下の身でありながら帝の后と通じるとは決して許されない行為ですが、この禁断の恋は業平だけでなく、光源氏も、そして定家もそれに囚われてしまったと、物語や謡曲の題材にされています。
 源氏物語で「雲林院」が登場するのは、賢木の巻です。源氏は、父帝の亡くなった後にも、藤壺の中宮への思いを絶ち難く、自分に逢ってくれない中宮に、思い知らさせるために参内せず、雲林院にこもるのです。また、この巻で源氏と当代の帝の寵妃・朧月夜との密通が発覚します。つまり帝の后との密通というモチーフを扱うにはうってつけの場所が、雲林院でもあるのです。雲林院はまた風光明媚でも知られた所、これ以上の舞台設定はないと、作者がほくそえんでいるように感じるのは、私だけでしょうか…

 現在、大徳寺では「京の冬の旅」として、通常非公開の塔頭寺院の拝観も受け付けています。ゆっくりと静かな京を散歩するにはうってつけではないでしょうか。

侘人のわきて立ち寄る木のもとは 頼むかげなく紅葉散りけり

僧正遍昭

是や聞く雲の林の寺なれば  花をたづぬる心休めん

西行


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