弱法師
(よろぼし)

 大阪の下町、天王寺区に、謡曲『弱法師』の舞台、日本で最初の官寺と言われる四天王寺があります。ここは聖徳太子が立てたと言われる、日本で最も古い寺のうちの一つです。

 聖徳太子、別名は、厩戸皇子(うまやとのみこ)、または、豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれた皇子で、大和朝廷初の女性の王である推古女帝の摂政となった人です。
 仏教を篤く信仰し、役人の地位を決める冠位十二階制度や日本で最初の法である十七条憲法制定、最初の遣隋使を派遣し、大国隋と対等外交を目指すなど、様々な偉業を行った人物と伝えられています。
 がしかし、聖徳太子の生きていたのは6世紀後半から7世紀にかけて、その実際の人物や、その手になった書物などは残っておらず、実在の人物であることはほぼ確実でも、詳細な人となりはほとんど分からない、伝説の人物なのです。

 にも関わらず、聖徳太子というと、現代でも、三十代以上の人であればその顔を頭に浮かべることができる不思議な人です。このからくりは至って簡単。なぜなら聖徳太子は何より「一万円札」(又は五千円札)として記憶に残っているからです。
 子供の頃お正月に頂くお年玉で、たまに聖徳太子の顔が拝めると大変嬉しく、大当たりだと思ったことが思い出されます。しかし、千数百年も前の、ほとんど伝説に近い人の肖像をお札にしていたのは、日本だけではないでしょうか?そのことから考えても、聖徳太子という人の存在が日本人にとっていかに大きいものであるか分かろうというものでしょう。

 さて日本に仏教が公式に伝わったのは、西暦五三八年、聖徳太子のお祖父さんである、欽明天皇の治世でした。そしてこの「公式な伝来」の結果、大和朝廷の勢力図は塗り変えられることになるのです。

 仏教の広がりを面白からず思っていた有力豪族の物部氏は、同志を欽明の後継者、敏達天皇に見出します。ここに仏教の迫害と、それに絡んだ豪族の勢力争いが起り、それは物部守屋対蘇我馬子の二大勢力の対立となって次の用明天皇の時代まで続くのです。
 当時の大和朝廷の勢力範囲や、大陸との活発な交流から考えるに、仏教がそれ以前にもたらされていたと考える方が妥当なのですが、旧勢力であった物部氏と新興勢力の蘇我氏との対立が、避けられない局面を迎えてい、丁度そこに仏教の伝来が重なったのではないかと思われます。
 そしてもう一つの見逃せない要因ですが、当時の豪族というのは、ある種の職業を世襲とする氏族の集合体であり、物部氏は、軍事とそして神事を司る氏族の頭領だったと資料は物語ります。
 古い豪族でもある物部氏は、自らも天神の子であるとして、独自の天下り神話を持ち、石の上神宮の祭祀を執り行っていました。この物部氏から見れば渡来系の蘇我氏など、昨今新に朝廷に加わった新参者であり、その新参者がこともあろうに仏教等という素性のわからない宗教を担いで、物部氏の氏族としての職業である神事を圧迫しようとしているのです。これでは、平和裏な解決など考えられなかったことでしょう。

 しかし歴史は蘇我氏に味方しました。敏達天皇を担いだ廃仏派は、一旦は形勢を挽回したかに見えましたが天皇の死によって劣勢となり、次の天皇位に仏教信者であり、また蘇我の血を引く用明天皇がつくことで、朝廷における蘇我氏の優勢は決定的なものとなりました。
 ここに至って、物部守屋は軍事決起を決意しますが、結果は蘇我馬子の率いる軍に征伐され、あえない最後を遂げることとなります。

 上の系譜を見れば一目瞭然ですが、聖徳太子は、父用明帝側からも、また母の間人皇女側からも蘇我の血を受けています。ですから、この廃仏派討伐軍に少年だった聖徳太子が加わっていたのも当然なのですが、父の用明天皇譲りで仏教に深く帰依していた太子は、討伐隊の戦局が不利になた時一つの祈願を立てます。

 太子は、白膠木(ぬるで)の木で、四天王の像を刻み、頭に戴いて、「もしこの戦いに勝たせて頂いたなら、四天王を祀る寺塔を建てましょう」と誓いを立てるのです。すると戦局は討伐軍に有利に変わり、物部氏は滅びることとなりました。

 実際に太子が誓いを実行に移すのは、摂政となって国政に深く加担する推古帝の治世ですが、この太子の誓いをもって、四天王寺起源とされています。

 太子が誓いを立てた相手の四天王は仏界を守護する四人の神のことです。東方は「持国天」・南方は「増長天」・西方は「広目天」・北方は「多聞天」が、それぞれ守るとされています。
 飛鳥・奈良時代の古寺では、金堂の本尊の周囲を四天王が守っているのが標準の配置とされました。が、四天王寺では、創建当初、四天王そのものが本尊とされていたようです。

また『金光明最勝王経』という経典に、

「四天王は国家を鎮護し、外敵・天災を除き、民生の平安を守る」と説かれています。聖徳太子が摂政に就任した当時、中国大陸では南北朝の分裂が終り統一王朝の隋が台頭し、また大和朝廷と深い関係にあった朝鮮半島では、友好国であった百済が高句麗・新羅連合軍に押され、対外的な緊張が高まっていました。隋の膨張政策は強いもので、海を隔てた倭もその緊張感をひしひしと感じていたのでしょう。強大な国に対して周辺国家が独立を守るため、まず国内の安定と近代化。そして隋に対する強気の対等外交政策が太子の取った方針だったようです。冠位十二階の制定や憲法十七条と並んで、遣随使小野妹子の派遣。そこで有名な「…日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや…」の挨拶が世に出ます。

 一旦は激怒した煬帝でしたが、高句麗と突厥が連合するかもしれない情勢の中で、東方の小国のたわごとに真剣に関わっている場合ではないと判断し、帰国する小野妹子に、国使・裴世晴を同行させます。
 当時の遣隋使のルートは、朝鮮半島から北九州へ渡り、瀬戸内海を船で旅し、難波の浦から上陸するのが一般的でした。奈良の都をすぐ後ろに控えた貿易港が、今の天王寺の周辺だったわけです。

 大阪市の天王寺区というのは、今では埋めたてられてビルの立ち並ぶ繁華街になっていますが、かつては大阪湾に面した港でした。特に西大門の外に立つ、石の鳥居は、春秋の彼岸の中日にその中心に太陽が沈むのが見え、後世日想観の聖地にもなっています。
 日想観とは『感無量寿経』に説かれる十六の行法の一つで、沈む夕日を見て西方にある阿弥陀仏の浄土を瞑想し、臨終の際に極楽往生の助けとする行だそうです。

 大陸からやって来る人や物は、この難波の浦に上がり、そして生駒山のふもとを廻って奈良盆地へと入っていったのです。首都の玄関でもあったこの土地に、護国を願う巨大な伽藍を建築したのは、先進国・隋の使者に、蛮夷の国と侮られない為にも必要かつ有効な政策であったに違いありません。
 四天王寺の本坊は、残念ながら一般参詣者は立ち入り禁止で中を拝見することは出来なかったのですが、回泉式の庭園に五つの茶室の点在する優雅な作りで、現在でも外国からの賓客のもてなしに使われているそうです。

 四天王寺には、現在も舞楽が伝えられており、毎年4月日の聖霊会には、六時堂の前の石舞台で、千年前と同じ華やかな舞台が営まれるそうです。

 大阪というところは、仕事以外で足を向ける方は中々いない街のように見られますが、京都や奈良とはまた違った、古い面影を残す街でもあるのです。
 観世九皐会の大阪での舞台・九皐会館もこの四天王寺からすぐの場所にあります。次回、関西にお出かけの際、もしお時間がありましたら、四天王寺を訪れるのてみては如何でしょうか。


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