弱法師
(よろぼし)
大阪の下町、天王寺区に、謡曲『弱法師』の舞台、日本で最初の官寺と言われる四天王寺があります。ここは聖徳太子が立てたと言われる、日本で最も古い寺のうちの一つです。 聖徳太子、別名は、厩戸皇子(うまやとのみこ)、または、豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれた皇子で、大和朝廷初の女性の王である推古女帝の摂政となった人です。 にも関わらず、聖徳太子というと、現代でも、三十代以上の人であればその顔を頭に浮かべることができる不思議な人です。このからくりは至って簡単。なぜなら聖徳太子は何より「一万円札」(又は五千円札)として記憶に残っているからです。 さて日本に仏教が公式に伝わったのは、西暦五三八年、聖徳太子のお祖父さんである、欽明天皇の治世でした。そしてこの「公式な伝来」の結果、大和朝廷の勢力図は塗り変えられることになるのです。 仏教の広がりを面白からず思っていた有力豪族の物部氏は、同志を欽明の後継者、敏達天皇に見出します。ここに仏教の迫害と、それに絡んだ豪族の勢力争いが起り、それは物部守屋対蘇我馬子の二大勢力の対立となって次の用明天皇の時代まで続くのです。 しかし歴史は蘇我氏に味方しました。敏達天皇を担いだ廃仏派は、一旦は形勢を挽回したかに見えましたが天皇の死によって劣勢となり、次の天皇位に仏教信者であり、また蘇我の血を引く用明天皇がつくことで、朝廷における蘇我氏の優勢は決定的なものとなりました。 上の系譜を見れば一目瞭然ですが、聖徳太子は、父用明帝側からも、また母の間人皇女側からも蘇我の血を受けています。ですから、この廃仏派討伐軍に少年だった聖徳太子が加わっていたのも当然なのですが、父の用明天皇譲りで仏教に深く帰依していた太子は、討伐隊の戦局が不利になた時一つの祈願を立てます。 太子は、白膠木(ぬるで)の木で、四天王の像を刻み、頭に戴いて、「もしこの戦いに勝たせて頂いたなら、四天王を祀る寺塔を建てましょう」と誓いを立てるのです。すると戦局は討伐軍に有利に変わり、物部氏は滅びることとなりました。 実際に太子が誓いを実行に移すのは、摂政となって国政に深く加担する推古帝の治世ですが、この太子の誓いをもって、四天王寺起源とされています。 太子が誓いを立てた相手の四天王は仏界を守護する四人の神のことです。東方は「持国天」・南方は「増長天」・西方は「広目天」・北方は「多聞天」が、それぞれ守るとされています。 また『金光明最勝王経』という経典に、 「四天王は国家を鎮護し、外敵・天災を除き、民生の平安を守る」と説かれています。聖徳太子が摂政に就任した当時、中国大陸では南北朝の分裂が終り統一王朝の隋が台頭し、また大和朝廷と深い関係にあった朝鮮半島では、友好国であった百済が高句麗・新羅連合軍に押され、対外的な緊張が高まっていました。隋の膨張政策は強いもので、海を隔てた倭もその緊張感をひしひしと感じていたのでしょう。強大な国に対して周辺国家が独立を守るため、まず国内の安定と近代化。そして隋に対する強気の対等外交政策が太子の取った方針だったようです。冠位十二階の制定や憲法十七条と並んで、遣随使小野妹子の派遣。そこで有名な「…日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや…」の挨拶が世に出ます。 一旦は激怒した煬帝でしたが、高句麗と突厥が連合するかもしれない情勢の中で、東方の小国のたわごとに真剣に関わっている場合ではないと判断し、帰国する小野妹子に、国使・裴世晴を同行させます。 大阪市の天王寺区というのは、今では埋めたてられてビルの立ち並ぶ繁華街になっていますが、かつては大阪湾に面した港でした。特に西大門の外に立つ、石の鳥居は、春秋の彼岸の中日にその中心に太陽が沈むのが見え、後世日想観の聖地にもなっています。 大陸からやって来る人や物は、この難波の浦に上がり、そして生駒山のふもとを廻って奈良盆地へと入っていったのです。首都の玄関でもあったこの土地に、護国を願う巨大な伽藍を建築したのは、先進国・隋の使者に、蛮夷の国と侮られない為にも必要かつ有効な政策であったに違いありません。 四天王寺には、現在も舞楽が伝えられており、毎年4月日の聖霊会には、六時堂の前の石舞台で、千年前と同じ華やかな舞台が営まれるそうです。 大阪というところは、仕事以外で足を向ける方は中々いない街のように見られますが、京都や奈良とはまた違った、古い面影を残す街でもあるのです。 |