遊行柳
(ゆぎょうやなぎ)
『遊行柳』の名前は、遊行上人と柳の木の話だからそう付けられたのでしょうか。謡曲に出てくる遊行上人は、遊行十九世・尊皓上人とされていますが、十九世と言うからには一世がいたはずですよね。 芦野の里に行く前に、まずは一遍上人と遊行のことから始めたいと思います。 一遍上人、正式には一遍智真は、十世紀の「市聖」空也上人を崇敬し、その踊念仏を継承し、念仏による衆生の救済を夢見て、全国を遊行行脚した、時宗の開祖です。彼はもともと伊予の豪族河野氏の出身で、十歳の時に母を亡くし、既に出家していた父・河野通広の命で出家します。 さて智真はここで「十一不二の偈(さとり)」を会得します。この考え方は大変難しいのですが、簡単にご説明しましょう。 「念仏を唱える、その時その時が臨終であり、念仏は只今の一念である。一念は機の上から言えば初一念であって、本質的には臨終もなければ平生もない。臨終と平生は同一であるとしている。只今の一念のみで往生できるが、一念でとどまることなく念仏を相続せよ。相続が多念であり時分である。多念は一念のつみかさねである。十劫の昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったのは、只今の一瞬に衆生が念仏を唱えて往生するからである。したがって十劫の昔と只今の一念とは不二である。 」 というのが十一不二の意味ですが、御理解頂けましたでしょうか。実は私も書いていて分ったのか、分らないのか、それこそ分らなくなってしまいましたが、つまりは「いつもいつも、臨終の時と思って念仏を間断なく続けなさい。そうすれば極楽往生できますよ。」という教えなのです。 この悟りを得た智真は、妻・娘・弟子の三人を連れ、空海(弘法大師)の連行の跡を訪ねて高野山と熊野に百日の参篭をします。そしてここでも阿弥陀仏を称える夢で神勅偈を得ます。 一遍上人の旅人生は、「一遍聖絵」に詳しく書き残されています。これは東京の国立博物館にありますので、機会があれば一度見るのも良いかと存じます。なぜならこの「一遍聖絵」は、時宗の教えだけでなく、中世の風俗、主に旅の様子を克明に記したものとして、実に貴重な資料だからです。またこの絵図は全十二巻が失われずに残っている事も特筆に価するでしょう。 そして一遍上人の旅は、彼亡き後も彼の後継者である、代々の遊行上人によって受け継がれて行くのです。 さてそろそろ芦野の里へと御案内致しましょう。関東最北の宿場・芦野は、もともと那須七騎の一、芦野氏の居城の辺です。那須七騎とは、平家物語、そして今年春の別会、『屋島』にも出てきた那須与一の子孫と伝えられます。扇を射た功労によって、那須与一は今の栃木県黒磯市辺りに広大な所領を与えられ、その子孫も長くこの地で繁栄することになりますが、その話はまた次の機会に…
先にも述べたように、芦野は那須で最も古くから開けた町なのですが、鉄道の路線からもそれ、高速道路も国道の陸羽線も離れた所を通ってしまい、すっかり往時の面影を失ってしまいました。 いつもは写真で、曲の故郷を辿るのですが、今回は芦野に住む、安達雅夫さんのスケッチでここを紹介致します。 JR黒磯駅から国道四号線を越えて東に四キロほど行くと、旧陸羽街道に出ます。この道は、かつて西行が通り、一遍が往き、遊行上人、芭蕉そして与謝蕪村が歩いた道です。 芦野の手前の田んぼの中には、かわいい五輪塔が立っていて、刈り入れの終わった田園風景のアクセントとなっています。これは、昔口減らしのために農家に奉公に出た子供が、仕事が遅いといってその主人に鞭で打たれ、亡くなってしまったのをかわいそうに思った村人が後に皆で供養したものだそうです。 さて、そんな哀しみを秘めた道をたどると芦野の里へと入って行きます。 芦野は、江戸時代には四五〇〇石の旗本・芦野氏の本陣として栄えました。いかにも街道筋の町らしく、町の真中を一本「仲通り」と呼ばれる通りが貫き、両側に三河屋、油屋といった屋号を今に残す家が軒を並べています。 町の中ほどには、以前軒もあったといわれる旅篭の最後の生き残り、丁子屋さんが店を構えています。もちろんここは今でも旅館を経営していらっしゃいますが、それよりもうなぎ屋さんとしてのほうが、今は有名かもしれません。 さて、この丁子屋さんにはとても変わったお座敷があるのです。これは 「蔵座敷 」と呼ばれていますが、八畳二間の座敷が土蔵の中にしつらえてあります。 丁子屋さんのお隣は、布袋屋さんという、これまた江戸時代から続くお菓子屋さんです。ここの名代はその名も「遊行饅頭」です。素朴な黒餡のお饅頭ですが、これをほおばりつつ街外れの遊行柳に向かいましょう。 「遊行柳」は収穫を終えた水田の中にありました。春には桜、夏には紫陽花、そして秋には小菊と彼岸花が咲き乱れる細道を通って、木の下まで行くことが出来ます。ここで西行が「道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ち止まりつれ」と詠み、芭蕉が「田一枚 植えて立ち去る柳かな」と詠みました。往時、このあたりは茫漠とした野であり、そこにただ一本、柳が木陰を作っていたのでしょうか。 平成三年には遊行第七三世・一雲上人もこの柳を訪れたそうです。丁子屋さんで拝見したお写真で一雲上人は、咲き乱れる紫陽花を背景に、降りしきる雨の中で何事か一心に祈っていられるようでした。 芦野はもうすぐ一面の錦秋に包まれます。また春、芦野城址(桜ヶ城)は一千本の桜が咲き誇ります。「道祖神の招きに答へて」小さな旅はいかがでしょうか。 |